【古代日本】仏教を広めたのは信仰の為だけじゃない!?蘇我馬子が勝ち取った「利権と覇権」
蘇我と物部
古代日本では、中国から伝来した「異教」である仏教を受け入れるかどうかが、大きな政治問題になりました。
この問題の中心にいたのは、ヤマト政権で大臣を務めた蘇我氏と、大連だった物部氏です。
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蘇我氏は東漢氏などの渡来系氏族を支配していました。朝鮮半島や中国大陸の情報にも接しやすく、新しい宗教である仏教を政権の発展に利用しようとしたと考えられています。
これに対して物部氏は、軍事を担当する有力氏族でした。外敵への備えや従来の政治体制を重んじたため、仏教を取り入れる必要はないという立場だったようです。
しかも物部氏には、欽明天皇が蘇我氏を重く用いていたことへの不満もあったと考えられます。つまり仏教をめぐる意見の違いには、豪族同士の政治的な対抗意識も重なっていたのでしょう。
両者の対立が激しくなったのは、571年に欽明天皇が死去した後の敏達天皇の時代でした。大連の物部守屋は敏達天皇に近づき、蘇我稲目の後を継いだ蘇我馬子の政治を批判します。
敏達天皇も守屋の主張を支持しました。そして585年、物部守屋は蘇我馬子が信仰していた寺院を焼き、仏像を破壊します。
ところが同じ585年、今度は敏達天皇が急死しました。用明天皇が後を継ぎ、さらに587年には蘇我馬子と物部守屋が戦い、馬子が勝利して守屋は殺害されています。


