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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第22話

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「ず、ずりいや鯛兄イ!国貞の兄さんが一緒だなんざ、言わなかったじゃねえか!」

「だから今、お前自身が言っていただろう。これは、罠だと」

見下ろす目が記憶と違わず冷たい。

「そ、そんな・・・・・・!」

「明日」、

国貞は、ぴしゃりと言う。

「かならず先生の工房まで来い」

「それア!」

国芳は咄嗟に言い返した。

「国貞の兄さん、それア本当に、父っつぁんの思し召しかえ?」

「何故、疑う?」

「父っつぁんが、わっちに会いてえなんざ」、

国芳の胸が詰まった。

「言うわけねえもんよ」。

突然弱々しくなった国芳の声を聞いて、国直が心配そうな目をした。

国芳が工房に通わなくなったのを咎めずに庇ってしまったのは国直である。弟分の可愛さにその行為を許してしまった国直も、少なからず責任を感じているようであった。助け舟を出そうと国直が何か口を挟もうとした時、

「いいや」、

と国貞が言った。

「先生が、明日お前を連れて来るようにと仰ったのさ。私はそれを伝えに来ただけだ」

国貞の声は、心なしか柔和であった。

「兄さん、でも・・・!」

「国芳」、

あまりその名を呼んだこともない国貞が、静かにその名を呼んだ。

「時間がもう、ない」。

国芳は静かな声で落とされた大きな衝撃に、びくりと顔を上げた。

「え?・・・・・・」

「先生はもう、・・・・・・相当悪い」

「え・・・・・・」

国芳の声が掠れた。

「明日の辰の刻。待っている。かならず、来ておくれ」

国貞は静かに国芳に向かって頭を垂れた。

きちんと清潔に剃られた月代と程良く散らした刷毛先が、国芳の目に鮮烈に映った。

否、その衝撃は鮮烈を越して違和感すら伴っていた。

なにしろ、いつも冷ややかに国芳を見下ろしていた国貞の頭のてっぺんなど見たことがない。

(国貞の兄さんが、頭を下げた)

ひどく長い沈黙の末に、国貞は顔を上げた。

長い睫毛に縁取られた国貞の目は、静かにひたりと冷えた哀しみを湛えている。

「父っつぁんは、今日は・・・・・・?」

国芳はおずおずと国貞に訊いた。

「ああ、先生は国重の兄さんが看てくれているし勿論お内儀もいるから、心配はいらない。先生もさすがに、私の顔ばかりでは嫌になるだろうから・・・・・・」

不安からか少しだけ饒舌な国貞の言葉を聞きながら、こんな弱気な事を言う兄弟子だったろうか、と国芳は思った。

国芳の記憶の中の国貞はいつも強気で、国芳がつっかかろうが何をしようが顔色も変えずに絵だけを描いていた。

(いや、顔をこちらに向けてくれたことすら、ほとんどなかった。・・・・・・)

背中だ。

国貞の猫のようにしなやかな背中ばかりが、国芳の脳裏には焼き付いている。

(あの背中が)、

いつの時も何も語らなかったあの背中が、工房に寄り付かなくなってからもどうしても頭から離れなかった。

自分の母親が亡くなった時にも国貞は取りも乱さず、背中しか見せなかった。貝がそっと口を閉じるように押し黙って画室で絵を描いていた、あの冷たい背中。

そこには人間が当たり前に感受する喜びや哀しみ、そのどの色も読み取れはしなかったが、絵筆を握るそのしなやかな指先は、江戸中を惹きつける粋で洒脱な錦絵を常に紡ぎ出し続けてきた。

師の期待に応えて江戸中から愛される「歌川派の絵師」となるためだけに、国貞は生きてきたのである。

(幾つの哀しみを、幾つの切なさを呑み込んで、あの背中は一体)、

国芳は気が遠くなる思いがした。

その背中の持ち主が今まさに目の前にいて、その薄いくちびるが弱音のような事を吐き、哀しい目で頭を下げている。

(わっちのようなボンクラな弟分に)。

そういえば国貞が怒る時にはいつも、豊国の名を汚す気かと言って怒った。私情で怒った事は一度もないのに、豊国の事となると烈火のごとく怒り狂った。国貞には、豊国が全てだったのだ。この人ほど豊国を理解しようとし、敬愛し、そのすぐ背後をひたりと付いて歩いてきた弟子は後にも先にもいるまい。

(もう父っつぁんは本当に、いけないのかも知れねえ)

国芳は、ごくりと唾を飲んだ。

「国貞の兄さん」、

国芳の発した低い声に、国貞は長い睫毛をふっと上げた。

「今日はわざわざわっちのために御足労ありがとうごぜえやした」

国芳の素直な言葉を聞き、国貞は見逃すほど微かに口角を上げた。

「明日、わっちを父っつぁんに」、

国芳は額を床に擦り付け、兄弟子に懇願した。

「どうか明日、父っつぁんに会わせて下せえ!宜しくお願えしやす・・・・・・!」

国貞は初めて国芳のこんな風に真剣な姿を見て、随分驚いた表情をした。

「だから、初めからそう頼んでいるだろうが」

ふっと国貞は口許を緩め、そしてその後に、

「ありがとう」。

藍瓶の中に一粒の水滴がぽたりと落ちるように、言葉が国芳の胸の底に落ちてじわりと広がった。

その後、国貞と国直は下駄の歯が土を噛む音すらも立てずに、静かに裏長屋を去った。

(どうしたって国貞の兄さんには、一生敵いっこねえ)

今更分かりきった事実を改めて鼻の頭に突きつけられ、国芳は砕けそうなほど歯を食いしばった。

結局その後しばらく床に額を擦り付けたまま、国貞がいたという余韻が完全に消えるまで、ぴくりとも動く事が出来なかった。

 

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