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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第22話:3ページ目
◾文政八年、一月 (1)
「どうも長々と、トンチキ絵師の昔話をお粗末様でした」
綿入りの夜着を着込み、講釈師のように扇子と手ぬぐいを使って話していた国芳は、飽きもせずに聞いてくれた相方に対して深々と頭を下げた。
「へえ、それで兄さんは正月に吉原(なか)で凧を売るようになったんだねえ」
同じく夜着にくるまり火鉢を抱き込んで聞いていた佐吉は、感心したように言った。
「ああ」
あの日から十年余り、いくつかの作品を出したもののまったくと言ってもいいほど芽が出なかった国芳は、だんだん豊国のもとにいづらくなり、工房に寄り付かなくなった。
それでも文化年間は国直の家に居候していたが、文政になって国直が嫁を娶ってからはさすがに迷惑だと思い、一人で白銀町二丁目や合羽干場のあばら屋を転々としたのち、この佐吉に拾われた。
「わっちゃア落ちこぼれだから、父っつぁんもわっちの事なんざ忘れっちまったろう。わっちもあんなくそじじいの事なんざ嫌えだ」
「でも、その『わっち』ってのも、豊国の父っつぁんの受け売りなんだよな」
佐吉が笑いながら指摘した。
「うるせえ」
ぽかりとげんこつを落とした瞬間、とんとん、と表をたたく音がした。
「芳。芳坊。ここにいるかえ?」
腰高障子の向こうから懐かしい声が掛かった。
「鯛兄イ・・・?」
声の主は、明らかに国直であった。
国芳は慌てて身繕いをした。
「あいただいま!」
土間に飛び降りてガラリと障子を開くと、果たして国直であった。
「よお、久しぶりだな」
すっかり父親らしい表情になっているが、逞しい体躯と笑った顔は少しも変わらない。
上がるかえと訊くと、いやここでいいと言う。
国芳もほっとした。
手前の四畳には佐吉がいるし、その奥の六畳には描き損じの紙くずやら筆やら絵の具皿が散らばり放題である。
「芳、目やに付いてるぜ。真面目に描かねえでゴロゴロしてたのか?」
「やだねえ鯛兄イ、人聞きの悪い。その逆。絵を描きすぎたから、佐吉と話して休憩してたんでい」
「本当かよ」
「本当本当。ねえ、鯛兄イ。一体何の話してたか、分かるかえ?」
「何って、ナニだろ」
「馬鹿、違げえよ」
「兄貴に向かって馬鹿って言うなよなあ」
「正解は、わっちが入門したての頃の話さ」
「アア?おめえさんが、十の時だっけ?」
「ちゃらくら言うねえ、十六でい」
「十六だったか!?喧嘩ッ早くてガキくせえからもっと下だと思ってたぜ」
「いやだねえ、鯛兄イは。わっちゃあ幾つになっても純真無垢な少年のままだよ。菊慈童だよ」
「へっ。菊慈童が聞いて呆れらあ。なあ。どの口が言ってんだ?なあ?」
国直は笑いながら国芳の頬を両手でつまみ、にいーっと横に引っ張った。
「あだだだだ!やめて鯛兄イ!ちょっとした洒落じゃねえか!」
頬を抓まれた国芳は涙を浮かべて笑った。
国直は国芳の端正な顔を歪めて遊んでひとしきり笑うと、ようやく手を離した。
国芳の頬が赤く痕になっている。
「懲りたな。それはそうと、今日来たのアな、言伝があるんだ。父っつぁんの具合が良くねえのア知ってるだろう。こないだ俺ア見舞いに行ったんだが、実は国貞兄さんからおめえに言伝でなア」、
国直が言いづらそうに手を擦り合わせて、
「明日、父っつぁんを訪ねるようにと」。
「うん、分かっ・・・・・・あ!?ええッ!?」
いつもの調子で生返事しかけた国芳は飛び上がった。豊国とは決別してもう随分会っていないのである。国直は念を押した。
「明日。かならずな」
「ええっ、それだけは!兄さん、それだけは勘弁しつくんな!」
国芳は手を合わせて、頭の上までその手を振り上げて請うた。
「馬鹿言うな。師匠の仰言った事だ」
「勘弁信濃の善光寺!」
「洒落たって駄目だよ」
「父っつぁんがわっちの事呼び出すわけねえや!そっ、それア、あいつだ!国貞の罠にちげえねえ!」
「まあ、おめえはそんな事を言い出すだろうと思って」、
国直は横に隠れている誰かに向かって手招きした。
「あ、・・・・・・ああっ・・・・・・!」
国芳はその人物を見るや否や、腰を抜かして口をパクパクさせた。
「芳、・・・・・・相変わらずだな」
踏み場のない土間から、いつかと同じように国芳を見下したのは、あの狐のように切れ上がった目である。
着物の吸い付くような撫で肩、細い腰の先に結んだ貝ノ口、加えてその淡々と冷静な喋り口調は紛れもなく、
「国貞の兄さん・・・・・・!」
罠を仕掛けた国貞本人が、目の前に立っていた。
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