【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第21話

小山 桜子

前回の20話はこちら

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第20話

前回の19話はこちら[insert_post id=80244]◼︎文化八年、二月(2)芳三郎は中庭に降り、思い切り手水鉢を蹴りつけた。岩はびくともせずに、足がじんじんし…

■文化八年、二月(3)

国直の住む日本橋新和泉町(しんいずみちょう)は人形町通りの東にある。

この辺りは元吉原の区画内で、どことなく艶めいた空気が残る。今は堺町、葺屋町の役者が多く住み、ちょうど国芳と同い年くらいの見習いが芳町の茶屋で春を売って稼ぐ。

腹を空かせきった芳三郎は、軒先の婀娜な提灯の連なりにいくらか如何わしい雰囲気を感じつつも、その前に照降町(てりふりちょう)で嗅いだ町の名物翁せんべいの香ばしい匂いが鼻の芯から抜けず、それどころではなかった。

芝居の切られ与三で知られる玄冶店(げんやだな)の北側の木戸門をくぐると、芳三郎の実家とほとんど似たような新和泉町の裏長屋の風景が広がっていてどこか懐かしく、少し寂しい気持ちになった。

「ここだ」

棟割長屋の手前から三つ目が国直の住処であった。

国直は腰高障子をがたぴし言わせて開いた。

猫の額ほどの土間に踏み込むと大盥、水甕、流し台、上には天窓も付いている。框(かまち)を上がれば四畳半で、狭いながらもきちんと整頓してあった。夜具も畳んで隅に寄せてあり、落書きめいた秋の野花などが描かれた一隻の小屏風で目隠しされていた。

国直は行燈の傍で手際よく火を起こし炭団(たどん)につけ、良い頃合で長火鉢に移した。

芳三郎が火鉢に当たっていると、魚の干物と冷や飯が出てきた。

「これでも食え」

国直の言葉で、芳三郎は野良猫のようにかじりついた。

久しぶりの旨い飯と火鉢の暖かさで芳三郎の身体が芯からほかほかと温まったところで、

「さて、続きを話そう。国貞兄さんの事だ」。

 

猫のように丸くなろうとしていた芳三郎の背筋が、国直の一言でぴりっと伸びた。

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