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地位も名誉も捨てた壮絶な生涯…キリシタン大名・ユスト高山右近ってどんな人物だったの?

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国外追放され殉教!地位も名誉も捨てた福者の壮絶な生涯

高山右近は天文21(1552)年〜天文22(1553)年頃、摂津高山氏の高山友照の嫡男として誕生し、自身も家族や家臣とともに洗礼を受けていた父の影響で、10~12歳でキリスト教の洗礼を受けました。

その後右近は父・友照とともに、松永氏→和田氏→荒木氏、そして織田信長や豊臣秀吉にも仕え、最終的には6万石の城主にまで出世しました。また彼の人徳の影響で、多くの大名がキリシタンとなった他、領民の多くもキリスト教を信じるようになったと言われています。

このため領内には衰退する神社仏閣が増え、「右近に迫害されたのでは」とまで言われる事態にもなりました。

しかし秀吉によって発令された「バテレン追放令」、そして徳川家康による「キリシタン国外追放令」により、彼もまた多くの日本のキリシタンたちと同様、時代の波に飲み込まれていきます。

「バテレン追放令」が施行されると、右近は信仰を守ることと引き換えに、なんと自身の領地・財産を全て捨て、小豆島、肥後国などに隠棲した後に、加賀の前田利家・利長の庇護を受けるようになりました。

その後「キリシタン国外追放令」が出されると、彼は加賀藩を退去し、国外追放されるキリシタンたちと共にマニラ行きの船に乗りました。そしてマニラ到着の40日後の1615(慶長20)年2月3日、高齢での船旅により体調を崩したことがもとで亡くなります。

地位・名誉・財産を捨ててまで信仰を守り抜いた、65年の生涯でした。

細川ガラシャに影響を与えたという説も

さて、右近と同じく日本のキリシタンとして有名な細川ガラシャ夫人は、夫の細川忠興からキリスト教の話を聞いた事がきっかけで、キリシタンとなる道を選びました。実はその忠興に影響を与えたのも、高山右近でした。

妻に信仰を捨てることを迫ったこともある忠興ですが、右近の影響もあり、主君である羽柴秀吉が「バテレン追放令」を発令するまではキリシタンに対して好意的だったのです。

ガラシャが命がけで夫の名誉と信仰の両方を守ったことは、後に天下分け目の「関ヶ原の戦い」に影響を与えました。

高山右近は、日本の歴史にまで大きな影響を与えたと言えるでしょう。

 

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