【豊臣兄弟!】「刀狩り令」はどこまで史実?町人を庇う秀長は脚色?秀吉が恐れた一揆と真の狙い:3ページ目
兵農分離により、その後の身分制度を進める
秀吉が行った刀狩りの目的は、農民たちによる一揆を防ぐだけではありません。もう一つの重要な目的は、武士と農民を明確に区別するための兵農分離にありました。
戦国大名までは、武士と農民の区別が必ずしも明確ではありませんでした。多くの武士が平常時は自分の所領で農民とともに農業に携わり、いざ戦いとなると武器を取る者も大勢いたのです。
また、農民も大名や領主にとって大切な労働力であると同時に、戦時には重要な戦力となりました。その多くは荷物の運搬や城の普請などに従事する人夫として後方支援にあたります。
しかし、なかには足軽として戦場に出る農民もいたのです。秀吉自身も、武士としての出発点は足軽で、秀吉の実父とされる木下弥右衛門も織田家の足軽だったとする説が伝えられています。
いずれにせよ、戦国時代の農村には、刀や槍などの武器を所有していた者がたくさんいたのです。
秀吉は刀狩り令を全国規模で発することで、兵農分離を推し進め、それにより一揆の危険性を減らすことを目指しました。
そして、秀吉が刀狩り令を出した1588年(天正16年)こそは、秀吉にとって節目の年であったのです。
この頃になると、豊臣家に服属しない有力大名は、関東の北条氏政(谷原章介)や奥州の伊達政宗などを残すのみとなります。そこで秀吉は、天下人としての動きをさらに加速させました。
聚楽第に後陽成天皇を迎え、徳川家康(松下洸平)をはじめとする有力大名に忠誠を誓わせるなど、天下人としての権威を示します。刀狩り令も、こうした天下統一と支配体制の整備が進むなかで発せられたのです。
しかし、庶民とて自分たちを守るためには刀や脇差、弓などの武器は必要でした。江戸時代と異なり、五人組など農村や町の秩序を守るための法や取り決めがなかった時代に、自衛のための武器を取り上げられることへの反発が生じるのは当然だったのです。
そこで、農民との無益な衝突を避けるために、取り上げた刀や武具を方広寺の大仏建立のために用いるとしました。『豊臣兄弟!』では、これを豊臣秀長(仲野太賀)の提案として描いています。
つまり、取り上げた刀は無駄にせず、新たに大仏を造る際の釘などに利用すると説明し、百姓は仏の功徳によって、この世だけでなく来世でも救われると説いたのです。
しかしこれはデタラメな話しで、鋼鉄質の刀剣類は鉄としての粘りが弱く、釘に加工したとしても強く打つとすぐに折れてしまいました。




