日本の領土を変えかけた男!?豊臣秀吉に台湾征服を直訴した豪商・原田喜右衛門の凄絶な栄光と転落:2ページ目
フィリピン・台湾進出を進言するが……
ともあれ秀吉への回答として、翌文禄元年(1592年)にドミニコ会派の修道士フアン・コボがフィリピンから日本へ派遣されました。
喜右衛門たちはコボの案内役を務め、名護屋城で秀吉に引き合わせますが、秀吉との謁見がどのような展開となったのかはよくわかりません。
コボがフィリピンへ帰国する際、喜右衛門たちは再びマニラへ使節として同行します。
しかし航海中に遭難し、何とか台湾へ漂着したものの、コボたちは原住民によって殺害されてしまいました。
何とか生き延びてマニラへ到着した喜右衛門は、現地で生活する内にフィリピン征服の野心を抱くようになったそうです。
「マニラは手薄になっているため、いま兵を出せば、容易に制圧できるでしょう」
フィリピンは地理的に南蛮交易の要衝であり、また日本にはない資源も豊富にあります。ここをおさえておけば、豊臣政権に資すること大なりと見込んだのでしょう。
しかし当の秀吉は、文禄元年(1592年)から朝鮮征伐(文禄の役)に乗り出しており、フィリピンどころではありません。
それでも南洋進出の野望を諦められない喜右衛門は、次に台湾征服を進言したそうです。
台湾は琉球と並んで、中国大陸や南洋方面との中間地点にあり、ここもまたアジア海洋制覇に重要な位置を占めていました。
「もし殿下の手が回らないのでしたら、手前が代わりに攻め込むので、支援して下され」
商人である自分であっても兵さえあれば、制圧するのは造作もない……それだけ台湾は据え膳状態だったのでしょう。
しかし必死の願いもむなしく、喜右衛門の野望が遂げられることはありませんでした。
また月日を無為に過ごす中で全財産を失ってしまい、フィリピン交易から手を引かざるを得なくなります。
そしていつしか姿を消し、その晩年や末路について知っている者は誰もいません。
