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【逆賊の幕臣】家康の盾となり散った猛将・小栗忠政――松坂桃李演じる忠順へと繋がる「又一」の武勇【後編】

【逆賊の幕臣】家康の盾となり散った猛将・小栗忠政――松坂桃李演じる忠順へと繋がる「又一」の武勇【後編】:2ページ目

最期まで家康に忠義を貫く

その後も忠政は忠功を重ね、天正12年(1584年)に家康が羽柴秀吉と対決した小牧・長久手の戦いにも従軍し、黒母衣の武者を討ち取りました。首級を実検に供えた忠政は、恩賞として金小札の鎧を賜ったそうです。

慶長5年(1600年)に家康が石田三成率いる西軍と対決した関ヶ原の戦いでは、迫り来る島津義弘の軍勢から家康を守り、武者の首一級を上げました。

また慶長19年(1614年)に火蓋が切られた大坂冬の陣では御使番斥候の任務を担当しています。

忠政は船場の橋が敵方に焼き落とされたという情報の真偽を確かめるため、実地検分にいきました。

船場の橋は敵前ギリギリにあり、その気になれば敵から狙撃することも可能だったそうです。

そんな危険任務を堂々と遂行する忠政の勇気に感服した敵方は、あえて誰も撃とうとはしませんでした。

この働きに対する恩賞として、忠政は家康から兵糧米3,000俵と与力20騎、弓鉄砲同心100人を付属されたそうです。

しかし翌慶長20年(1615年)に臨んだ大坂夏の陣では、各陣営を巡察する家康を護衛していたところ、何者かに撃たれてしまいました。

銃弾は左の股に当たり、この傷が原因で翌元和2年(1616年)9月8日、家康の後を追うように世を去ってしまいます。

享年62歳。宗本(そうほん)の戒名を贈られ、所領であった安立郡大成村の普門院(埼玉県さいたま市)に葬られました。

3ページ目 小栗忠政の家族と子孫たち

 

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