【豊臣兄弟!】迫る最期…蜂須賀正勝(高橋努)の没後なんと幕末・明治まで繋いだ“蜂須賀一族”を一挙紹介:3ページ目
正勝の雲孫・蜂須賀宗英(むねてる)
貞享元年(1684年)生~寛保3年(1743年)没
阿波徳島藩の代7代藩主。
元は徳島藩家老を務めており、すでに隠居して京都で暮らしていたと言います。そこへ宗員が亡くなるため養子となり、家督を継いだのでした。25歳年少の養父を持つことになって、複雑な気持ちだったかもしれませんね。
宗英には男児がいなかったため、養子の蜂須賀宗鎮(むねしげ)に家督を譲りました。そして死後の遺体は京都・清浄花院(京都市上京区)に葬られます。
これは歴代阿波徳島藩主の中で、阿波国外に葬られた唯一の例となりました。
正勝の末孫・蜂須賀宗鎮(むねしげ)
享保6年(1721年)生~安永9年(1780年)没
阿波徳島藩の第8代藩主。
ここへ来て、初めて蜂須賀一族以外から養子を迎えることになります。元は高松藩一門・松平頼熙(よりひろ)の次男で、阿波徳島藩主として徳川吉宗から宗の字をいただき、宗鎮と改名しました。
あくまで中継ぎのつもりだったのか、はじめは蜂須賀一族から蜂須賀重矩(しげのり)を養子に迎えていますが、重矩は早逝してしまいます。
今度は蜂須賀一族から蜂須賀重隆(しげたか)を養子に迎えましたが、今度は行状がよくなかったのか、廃嫡してしまいました。
そこで仕方なく異母弟の松平至央(よしひさ)を養子に迎えたものの、病弱のためわずか2ヶ月ほどで世を去ってしまいます。
そのため末期養子として、出羽久保田藩主の佐竹家から重喜(しげよし)を養子に迎え、辛うじて御家を存続できたのでした。
正勝の十世孫・蜂須賀至央(よしひさ)
元文元年(1737年)生~宝暦4年(1754年)没
阿波徳島藩の第9代藩主。
異母兄の蜂須賀宗鎮によって養子とされましたが、家督継承からわずか2ヶ月ほどで世を去ってしまいます。享年19歳。
正勝の十一世孫・蜂須賀重喜(しげよし)
元文3年(1738年)生~享和元年(1801年)没
阿波徳島藩の第10代藩主。
出羽久保田藩主・佐竹義道(よしみち)の子として誕生し、宝暦4年(1754年)に至央の養子として家督を継承しました。第9代幕府将軍・徳川家重に謁見して重の字をいただき、重喜と改名します。
かつて徳川吉宗が実行した享保の改革に触発されて藩政改革に着手しますが、明和6年(1769年)に幕府から「藩政よろしからず」として隠居を命じられてしまいました。本当によろしくなかったのか、あるいは幕府にとって都合が悪かったのか、実際はどうだったのでしょうか。
ともあれ、嫡男の蜂須賀治昭(はるあき)に家督を譲ってからは贅沢三昧の生活を送り、幕府から蟄居を命じられそうになったそうです。



