【豊臣兄弟!】迫る最期…蜂須賀正勝(高橋努)の没後なんと幕末・明治まで繋いだ“蜂須賀一族”を一挙紹介:2ページ目
正勝の玄孫・蜂須賀光隆(みつたか)
寛永7年(1630年)生~寛文6年(1666年)没
阿波徳島藩の第3代藩主。
第3代幕府将軍・徳川家光から光の字をいただいて、光隆(みつたか)と名乗りました。父の死にともなって家督を継ぎ、領内の寺院を再建するなど尽力しています。
盛大な鷹狩りを催したり、刀工の氏吉(うじよし)を招いたりなど尚武の気風を重んじる人物だったようです。
しかし激務がこたえたのか、37歳という若さで世を去ってしまいました。蜂須賀家は短命の人物が多いように感じますが、気のせいでしょうか。
正勝の来孫・蜂須賀綱通(つなみち)
明暦2年(1656年)生~延宝6年(1678年)没
阿波徳島藩の第4代藩主。
7歳で第4代幕府将軍・徳川家綱に謁見し、綱の字をいただいて綱通(つなみち)と名乗ります。父の死にともなって家督を継ぎますが、まだ幼かったために、成人するまで叔父の蜂須賀隆重が補佐しました。
領内の運河開削を手がけ、それが現在の吉野川第十堰(よしのがわだいじゅうぜき)につながっています。
23歳という若さで亡くなり、子がいなかったため、従弟の蜂須賀綱矩(つなのり)が家督を継ぎました。
正勝の昆孫・蜂須賀綱矩(つなのり)
寛文元年(1661年)生~享保15年(1730年)没
阿波徳島藩の第5代藩主。
従兄の蜂須賀綱通が急死したため、養子となって徳島藩主の家督を継ぎます。元は蜂須賀龍之(たつゆき)という名でしたが、家督継承に際して改名しました。
この代に、約120年にわたって絶縁していた福岡藩主の黒田家(官兵衛・長政の子孫)と和解しています。そもそもの原因は、黒田長政が正勝の娘・糸姫を離縁したことでした。
70歳まで生きて多くの子をもうけましたが、嫡男の蜂須賀吉武(よしたけ)が夭折してしまったため、養子に出していた蜂須賀宗員(むねかず)を呼び戻して家督を継がせています。
正勝の仍孫・蜂須賀宗員(むねかず)
宝永6年(1709年)生~享保20年(1735年)没
阿波徳島藩の第6代藩主。
はじめ蜂須賀正員(まさかず)という名前でしたが、阿波徳島藩主を継承する際に第8代幕府将軍・徳川吉宗から宗の字をいただいて改名しました。
父の隠居にともなって家督を継ぎますが、28歳という若さで世を去ってしまいます。実子の蜂須賀重矩(しげのり)はまだ幼かったため、一族から蜂須賀宗英(むねてる)を養子にして家督を継がせたのでした。



