秀長に毒殺された!?『豊臣兄弟!』で割愛の紀州攻めで徹底抗戦を貫いた湯川直春の悲劇の末路:2ページ目
秀吉の紀州攻めに立ち向かう
やがて本能寺の変で信長が横死を遂げ、織田政権を羽柴秀吉が乗っ取ってからも、直春の敵対姿勢は変わりません。
天正12(1584年)3月に秀吉と徳川家康が対決すると(小牧・長久手の戦い)、直春は家康に呼応して雑賀衆・根来衆と共に紀州で挙兵。羽柴政権の本拠地である大坂を脅かしました。
やがて家康が秀吉と和睦し、小牧・長久手の戦いが終結すると、秀吉は翌天正13年(1585年)3月に紀州攻めを決定します。
これに対して直春は徹底抗戦の構えを見せますが、白樫(しらかし)氏や神保(じんぼ)氏は秀吉に敵わぬと見て降伏してしまいました。
さらには直春の娘婿であった玉置直和(たまき なおかず)までも秀吉に降伏してしまいます。
直春は直和を討つべく兵を差し向けましたが、秀吉の派遣した仙石秀久(せんごく ひでひさ)や中村一氏(かずうじ)らの軍勢に阻まれました。
羽柴勢の反攻を防ぎかねた直春は本拠地の紀伊亀山城に火をかけ、熊野山中の近露(ちかつゆ。和歌山県田辺市)へと撤退します。
4月1日に仙石秀久・藤堂高虎・尾藤知宣(びとう とものぶ)らが近露へ迫りますが、直春はこれを潮見峠で撃退しました。
劣勢ではあっても地の利を活かし、戦いは7月にまでもつれ込みます。そして直春と羽柴勢は和睦しました。本領安堵が条件だったと考えられます。
