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【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路

【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路:7ページ目

脇坂安治(わきざか やすはる)

天文23年(1554年)生~寛永3年(1626年)8月6日没

近江の国人・田附源左衛門(たづけ げんざゑもん)の子として誕生し、脇坂安明(やすあき)の養子となります。

はじめ浅井長政に仕えましたが、天正元年(1573年)に滅亡すると明智光秀(要潤)の与力として丹波攻略で武功を立てました。

その勇猛さは「丹波の赤鬼」と恐れられた波多野家臣・赤井直正(あかい なおまさ)から賞されたほどだったそうです。

やがて安治は秀吉こそ出世頭と見込んだのか、頼み込んで羽柴家臣に鞍替えさせてもらいました。願いが叶った安治は大いに奮励し、三木城・神吉城攻めなどで武功を重ねます。

天正6年(1578年)の三木城攻めでは、秀吉から白輪違紋の入った赤母衣を拝領し、以来輪違(わちがい)を家紋としました。

その後も秀吉に従って各地を転戦した安治は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで一番槍の武功を立てます。また柴田勝政(しばた かつまさ。勝家の養子)を討ち取ったとも言われるそうです。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦でも武勲を上げたことから、淡路国洲本に3万石を与えられました。

以降は加藤嘉明や九鬼嘉隆(くき よしたか)らと共に水軍衆を率いて、九州征伐や小田原征伐、そして朝鮮征伐などで活躍しています。

文禄の役(第一次朝鮮征伐)では水軍1,500名を率いて海上輸送を担当したほか、閑山島海戦・釜山浦海戦・熊川海戦・第二次唐項浦海戦・場門浦海戦・永登浦海戦などで奮闘しました。

また陸上作戦にも加わり、第二次晋州城攻めでも活躍しています。

慶長の役(第二次朝鮮征伐)では水軍1,200名を率いて再び奮戦し、漆川梁海戦・鳴梁海戦など海戦のほか、南原城攻略戦・第一次蔚山城防衛戦などでは陸上戦力としても奮闘しました。

こうした武勲により、3千石を加増されて3万3千石を領することとなります。

やがて秀吉が世を去ると、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦でははじめ石田三成率いる西軍に与したものの、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の裏切りに乗じて東軍へ寝返りました。

戦後は減封されそうになりましたが、藤堂高虎のとりなしによって所領を安堵されたそうです。

それからしばらく合戦もなかった慶長14年(1609年)、安治は伊予国大洲(愛媛県大洲市)5万3500石に加増転封されました。これは豊臣恩顧の安治が淡路島に居座っていると、大坂を包囲する上で支障となることが懸念されたためと考えられます。

慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣では次男の脇坂安元(やすもと)を派遣し、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では安本が武功を立てました。

豊臣家の滅亡を見届けた安治は元和元年(1615年)に隠居し、元和3年(1617年)には京都西洞院へ移り住み、出家して臨松院(りんしょういん)と号します。

そして寛永3年(1626年)に73歳で世を去ったのでした。

8ページ目 賤ヶ岳の七本槍・それぞれの末路まとめ

 

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