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【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路

【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路:3ページ目

片桐且元(かたぎり かつもと)

弘治2年(1556年)生~慶長20年(1615年)5月28日没

近江の国人領主であった片桐直貞(なおさだ)の長男として生まれ、はじめは浅井長政(中島歩)に仕えています。

天正元年(1573年)に浅井家が滅亡すると、長浜城主となった羽柴秀吉に仕えました。正確な時期は不明ですが、中国攻めには従軍していたと考えられます。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは他の七本槍とともに一番槍の武功を認められ、恩賞として摂津国に3千石を与えられました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦にも従軍し、他の七本槍と同様に秀吉の馬廻衆としてその本陣を警護しています。

天正14年(1586年)には従五位下・市正(いちのかみ)と叙せられ、豊臣姓を賜わったほか、京都方広寺の作事奉行を務めました。

これ以降は奉行職として実務能力を発揮し、インフラ整備や物資調達などの兵站任務を担当しています。天正15年(1587年)の九州征伐では軍船の調達を担当しました。

一見地味ではあるものの、補給なくして勝利はおろか、継戦すらままなりません。秀吉の天下一統は、彼ら実務官僚の功績によって支えられたと言えるでしょう。

天正18年(1590年)に小田原北条氏が降伏した後は、小田原城の接収や鶴岡八幡宮の修繕手配、また検地などを実施しました。続く奥州仕置においても検地やトラブル解決などに尽力しています。

文禄の役(第一次朝鮮征伐)では渡海して兵站任務を担当したほか、晋州城の合戦などに従軍しました。

帰国後は伏見城の普請や国内の検地(文禄検地)、そして文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震の復興事業そして大坂の都市開発などで活躍したそうです。

慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、遺児である豊臣秀頼の補佐役として豊臣政権の維持に尽力しました。

そんな且元の献身ぶりは淀君(茶々)から厚く信頼され「秀頼の父代わりになってほしい」「命ある限り恩義を忘れることはない」と書状に記されるほどだったそうです。

徐々に徳川家康の脅威が豊臣家を脅かす中、且元は淀君・秀頼母子を支えるため奔走するのでした。

しかし懸命の努力もむなしく豊臣家の衰運をとどめることはできず、ついに慶長19年(1614年)10月1日に且元は大坂城から退去を余儀なくされます。

家康と豊臣家の板挟みとなりながら、且元は徳川軍に加勢し、ついには豊臣家の滅亡を見届けることとなったのでした。

そして豊臣家に殉ずるが如く、かねて患っていた咳病をこじらせ、慶長20年(1615年)5月28日に60歳で世を去ったのです。

4ページ目 平野長泰(ひらの ながやす)

 

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