【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路:4ページ目
平野長泰(ひらの ながやす)
永禄2年(1559年)生~寛永5年(1628年)5月7日没
秀吉の家臣であった平野長治(ながはる)の三男として、堀田道悦女との間に誕生しました。元服して通称は権平(ごんぺい/ごんべい)、諱をはじめ平野長勝としています。
21歳となった長泰は天正7年(1579年)に父の紹介で秀吉へ仕官し、賤ヶ岳の戦いでは他の七本槍と共に一番槍を果たして河内国に3千石を賜わりました。
天正12年(1584年)の小牧・長久手合戦では敵に突撃して首級を上げ、二重堀砦では敵を撃退する武功を立てています。
それからしばらく経った文禄4年(1595年)に2千石を加増されて5千石となりましたが、これが長泰にとって生涯所領のピークでした。
慶長3年(1598年)に豊臣姓を賜わり、従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)に叙せられています。
同年8月に秀吉が世を去ると、五大老の筆頭格であった徳川家康に従い、慶長5年(1600年)の会津征伐そして関ヶ原の合戦でも家康に従いました。
しかし徳川秀忠(家康嫡男)率いる別動隊に所属していたため、決戦に遅参して間に合わず、これと言った武功を立てずじまいとなっています。
戦後はそのまま秀忠に仕え、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、長泰は「人質にとられている嫡男の長勝を救出するため、大坂へ行かせてほしい」と直訴しました。
あるいは「豊臣家に味方したい」と直訴するも許されず、江戸留守居役として豊臣家の滅亡を知らされることになったのです。
豊臣滅亡後は江戸幕府の旗本として仕え、第3代将軍・徳川家光まで仕えました。そして寛永5年(1628年)5月7日に70歳で世を去ります。
七本槍の中で、唯一大名(1万石以上)になれなかった武将ですが、その9代子孫・平野長裕(ながひろ)は明治時代に入って田原本藩(たわらもとはん。奈良県田原本町)を立てました。
