【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路:6ページ目
加藤嘉明(かとう よしあきら)
永禄6年(1563年)生~寛永8年(1631年)9月12日没
元は松平元康(徳川家康)に仕えていた加藤教明(のりあき)の長男として誕生します。
父は永禄6年(1563)の三河一向一揆で元康に叛いたため、放浪を余儀なくされました。やがて近江国へ流れ着いた父子は、長浜城主となった秀吉に仕えたと言われます。
やがて元服して通称を孫六(まごろく)、諱ははじめ加藤茂勝(しげかつ)後に嘉明と改名しました。
はじめ羽柴秀勝(秀吉の養子で織田信長五男)の小姓として近侍しますが、天正4年(1576年)の播磨攻めに際して、居ても立ってもいられなかった嘉明は勝手に従軍してしまいます。
これを知った北政所(浜辺美波)は激怒し「主君(秀勝)より先に初陣を遂げようとするとは何事か」と叱責しました。
そしてすぐにも嘉明を追放するよう訴えますが、秀吉はかえってその心意気を賞賛し、直臣に取り立てたそうです。
かくして天正6年(1578年)の別所討伐で初陣を飾り、備中須久毛山(すくもやま。岡山県井原市)の合戦で首級2つを上げる武功を立てました。
その後も山崎合戦(天正10・1582年)に賤ヶ岳の戦い(天正11・1583年)と連戦し、賤ヶ岳では一番槍の武功によって3千石を賜わります。
続く天正12年(1584年)小牧・長久手合戦や紀州攻めに従軍し、翌天正13年(1585年)の四国征伐では小早川隆景(山本浩司)の与力として伊予国の平定に貢献しました。
こうした活躍により、天正14年(1586年)に淡路国の志知城(兵庫県南あわじ市)と所領1万5千石を与えられ、大名となります。
淡路水軍を掌握した嘉明は、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐に淡路水軍を動員し、それぞれ武功を立てました。
秀吉の天下一統後は文禄の役・慶長の役に水軍を率いて参戦し、各地で奮闘したそうです。
そして秀吉の死後は徳川家康と組んで石田三成らと対抗し、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦でも武功を立てました。
これにより10万石が加増され、伊予20万石クラスの大名として藤堂高虎(佳久創)と並び立ちます。共に築城の名手として知られた二人は仲が悪かったそうですが、互いに切磋琢磨したのでしょうか。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、豊臣恩顧の大名である嘉明は留守居役として江戸に留めおかれ、翌慶長20年(1615年)に豊臣家の滅亡を見守るよりありませんでした。
寛永4年(1627年)には会津藩43万5500石に転封され嘉明は、それを推挙してくれた高虎と和解したということです。
そして寛永8年(1631年)9月12日、69歳で世を去りました。
