【豊臣兄弟!】加藤清正(伊藤絃)だけじゃない!賤ヶ岳で武勲を立てた「賤ヶ岳の七本槍」7人の功績と末路:5ページ目
糟屋武則(かすや たけのり)
永禄5年(1562年)生~没年不詳
播磨国の出身ですが、父親については諸説あります。加古川城主の糟屋氏に養子入りし、天正5年(1577年)に播磨攻め中の秀吉へ仕官しました。
小寺官兵衛(倉悠貴)の推挙で秀吉の小姓頭を務め、三木合戦(別所長治討伐)に従軍します。初陣を飾った直後に三木城包囲網の一翼を担うなど、その才覚を早くから認められていました。
やがて天正7年(1579年)に兄の糟屋朝正(ともまさ)が討死したため家督を継ぎ、秀吉の中国攻めに貢献します。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると秀吉の中国大返しに従い、山崎合戦にも従軍しました。同年10月15日に京都大徳寺で執り行われた信長の葬儀では、秀吉家臣として参列しています。
翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは「金の角取紙(すみとりがみ)のエヅル」の旗指物を目印に、佐久間盛政の家臣である宿屋七左衛門(しゅくや しちざゑもん)を討ち取る武功を立てました。これによって他の七本槍と同じく3千石の知行を拝領しています。
その後は他の七本槍と共に秀吉の馬廻衆として本陣を守り、天正12年(1584年)小牧・長久手合戦や天正15年(1587年)九州征伐、天正18年(1590年)小田原征伐などでも秀吉の警護を担当しました。
他にも武則は実務能力が高かったことで知られており、京都方広寺の作事奉行や太閤検地、蔵入地の代官などを務めています。
秀吉の天下一統後は文禄の役(第一次朝鮮征伐)に従軍し、織田秀信(三法師)率いる九番隊に配属されました。朝鮮半島へ渡航した武則は片桐且元や石田三成らと占領地支配を担当し、現地住民の慰撫などに当たったほか、晋州城攻めでも武功を立てたそうです。
帰国後も実務官僚として活躍し、文禄4年(1595年)の秀次事件では秀次の身柄を自邸に拘束する役目を果たしました。すると事件直後に、なぜか賤ヶ岳の恩賞として6千石を加増され、1万2千石の大名となります。
慶長3年(1595年)8月に秀吉が世を去ると、石田三成らと組んで徳川家康に対抗し、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では三成率いる西軍に与しました。
伏見城攻めに従軍したほか、関ヶ原の決戦では宇喜多秀家の部隊に属して奮闘しますが、敗れて改易(所領を全没収)されたということです。
その後の晩年については、小禄の旗本として召し抱えられたり、既に毒殺されていたりと諸説あります。他にも大坂夏の陣で豊臣家の滅亡に殉じたという説や、元和9年(1623年)8月14日まで生き延びたという説もありました。
