14歳で初婚、結婚4回…朝ドラ『ブラッサム』石橋静河が演じるヒロインモデル・宇野千代の激動の生涯:3ページ目
一目ぼれで3度目の結婚
札幌へ帰る途中、再び東京へ立ち寄った千代は、作家の尾崎士郎と出会います。尾崎に一目ぼれした千代はそのまま尾崎と同宿し、東京まで迎えに来た忠と話し合って別れることになりました。
大正13年(1924年)に協議離婚が成立し、尾崎と三度目の結婚をします。三度目の正直になればいいのですが……。このころからペンネームを藤村千代から宇野千代に改め、作品集『幸福』を金星堂から刊行しました。
昭和2年(1927年)に川端康成の誘いで伊豆旅行へ出かけ、梶井基次郎・三好達治・藤沢恒夫らと知り合い、こと梶井とは懇ろな関係になったとか。東京へ戻って来てからもその関係が続いていたため、尾崎は当然面白くありません。やがて二人は離婚してしまいました。
尾崎と離婚した昭和5年(1930年)、千代は連載小説「罌粟(けし)はなぜ紅い」のために取材した東郷青児(とうごう せいじ)と初対面で同棲を始め、翌昭和6年(1931年)には東郷の連れ子である志馬とも同居します。
しかし昭和9年(1934年)に賭け麻雀の容疑で検挙されてしまいました。また東郷が情死未遂事件を起こした相手と復縁したため、千代は同棲を解消しました。
まさに踏んだり蹴ったりでしたが、東郷から取材したネタをまとめた『色ざんげ』を昭和10年(1935年)に刊行、作家としての名声を高めることに成功します。転んでもタダでは起きません。
ビジネスパートナーと4度目の結婚
昭和11年(1936年)に千代はスタイル社を創業し、日本発のファッション専門誌『スタイル』を創刊しました。共に編集者を務めた北原武夫と昭和12年(1937年)に同棲し、昭和14年(1939年)に4回目となる結婚をしました。
昭和16年(1941年)に夫婦で満州国や中華民国を取材しますが、同年12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、翌昭和17年(1942年)に北原は報道班員として出征します。
当時は戦時体制によって敵性語である英語が規制され、雑誌『スタイル』は『女性生活』と改題し、企業名スタイル社は文體社(文体社)と改称しました。
戦況が徐々に傾きつつあった昭和18年(1943年)に北原が復員し、より悪化した昭和19年(1944年)には文體社を解散して熱海へ疎開します。
いよいよ敗色濃厚となった昭和20年(1945年)には、熱海から北原の故郷である栃木県壬生町へ疎開し、敗戦を迎えたのでした。
昭和21年(1946年)に疎開先から東京へ戻って来た千代と北原は、焼け残ったビルの一室でスタイル社を再興します。ファッション雑誌とともに着物のデザインも手がけ、紹介・販売することで評判を呼びました。
戦後のライフスタイルにふさわしい着物デザインを追求する「宇野千代きもの研究所」の設立や、洋装とインテリアを活かしたライフスタイル提案ショップ「スタイルの店」を開業するなど、新時代のパイオニアとして活躍したそうです。
しかし事業が軌道に乗って来た昭和27年(1952年)、同業者の通報によって国税庁の査察が入り、スタイル社の脱税が発覚しました。
巨額の追徴課税によって負債を抱えた二人は、昭和39年(1964年)に完済した後に離婚したということです。きっと二人とも、精魂尽き果てていたことでしょう。
