『豊臣兄弟!』陰に隠れた英傑!「小牧・長久手の戦い」に散った26歳の勇士・池田元助の壮絶な最期
時は天正12年(1584年)、徳川家康は織田信雄の要請により、羽柴秀吉の専横を阻止するべく挙兵しました。
後世に伝わる「小牧・長久手の戦い」では、戦上手で知られた家康が秀吉に痛打を加え、力ずくで従えることを断念させています。
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今回は小牧・長久手の戦いで討ち死にした池田元助(いけだ もとすけ)を紹介。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯を送ったのでしょうか。
信長から認められて一軍の大将に
池田元助は永禄2年(1559年)、池田恒興の長男として誕生しました。生母は善応院(荒尾善次女)、幼名は勝九郎、元服して庄九郎と名乗ります。史料によって池田「之助(ゆきすけ)」と記されますが、恐らく元の崩し字が之に見えた誤記でしょう。
父が織田信長の乳兄弟であったことから、少年時代より信長に仕えました。
元助の名前が史料に登場したのは天正6年(1578年)の有岡城攻めで、天正8年(1580年)の荒木村重討伐では父や弟・池田輝政(てるまさ)と共に活躍しています。
続く花隈城の合戦では荒木元清を撃破し、その武功により信長から名馬を賜りました。
天正9年(1581年)2月28日には父の名代として輝政と共に馬揃えに参加して以降は、一人前の武将と見なされ、父とは別々に任務を与えられるようになります。
天正9年(1581年)11月、元助は羽柴秀吉と共に淡路攻略を命じられました。
元助は家臣の伊木忠次(いき ただつぐ)と羽柴家臣の蜂須賀正勝を派遣して由良城の安宅清康(あたか きよやす)の調略に成功します。
有力者であった清康の説得により、淡路国内の諸城は次々と降伏し、淡路国を平定しました。秀吉が中国攻めに転進した後も淡路国を守り、四国勢に睨みを利かせます。
やがて天正10年(1582年)には明智光秀の与力として甲州征伐(武田勝頼討伐)に従軍し、続いて秀吉の援軍として中国攻めの準備を進めている最中に、本能寺の変が起きました。


