『豊臣兄弟!』陰に隠れた英傑!「小牧・長久手の戦い」に散った26歳の勇士・池田元助の壮絶な最期:2ページ目
本能寺後は秀吉家臣として活躍
元助は「中国大返し」で姫路城へ舞い戻った秀吉と合流し、父たちと共に山崎の戦いで光秀を撃破します。
明智滅亡後の清須会議では、論功行賞として父・恒興が大坂・尼崎・兵庫12万石を与えられました。恒興は元助に伊丹城を、輝政に尼崎城を任せます。
その後も父に従って秀吉に従い、天正11年(1583年)に秀吉が織田信雄(信長次男)と組み、織田信孝(信長三男)と柴田勝家を滅ぼした賤ヶ岳の合戦でも武功を立てました。勝利の後に秀吉は大坂へ入り、恒興には美濃国大垣城が与えられ、元助には岐阜城が与えられます。
続く天正12年(1584年)には、秀吉の専横に不満を持った織田信雄が、徳川家康と共に秀吉へ対抗した小牧・長久手の戦いにも従軍しました。
恒興らは緒戦(羽黒の戦い)で失態を演じたことから、これを挽回しようと「三河中入り」作戦を献策します。
秀吉と対峙している家康の背後へ回り込み(中入りして)、本拠地の三河国を撹乱しようというのです。
中入り部隊は池田恒興父子5千・森長可3千・堀秀政3千・羽柴秀次9千という大軍が編成されました。
これで戦線の膠着状態を打破しようと意気込んだものの、中入りの動きは家康に読まれており、まず秀次の部隊が撃滅されてしまいます(秀次は逃亡)。
秀次の敗走を知った池田・森両隊は堀隊に救援を求めますが、秀政は動かず独自に徳川勢を撃退しました。
池田恒興・森長可そして元助は徳川勢の猛攻を受け、奮戦の末に討死してしまったのです。時に天正12年(1584年)4月9日、元助は享年26歳という若さでした。
終わりに
今回は若くして小牧・長久手の戦いに散った勇士・池田元助の生涯をたどってきました。
元助亡き後の家督は生き残った輝政が継ぎ、その後も家名を後世へ受け継いでいったのです。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、元助の最期は描かれるのでしょうか。楽しみに見守りたいと思います。
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※参考文献:
- 阿部猛ら編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年8月
- 高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年10月
- 谷口克広ら監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年1月


