『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】
「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、数多くの魅力的な人物が登場します。
建武政権の転覆を狙う公卿・西園寺公宗(さいおんじ・きんむね)もその1人です。
公宗は幕府と折衝する役職・関東申次を務める家に誕生。そのなかで武士や悪党とも関わりを持つなど多彩な人間関係を築いていきました。
公宗は皇位継承をはじめ、朝廷内部の重要事項に関与。絶大な権勢を誇り、同時に敵も作っていきます。やがて後醍醐天皇が倒幕を掲げて挙兵。そこには公宗の家人である平野将監の姿もありました。
劣勢であった後醍醐天皇方ですが、新田義貞や足利尊氏が翻意。形勢は傾き、鎌倉が陥落し、六波羅探題も殲滅されてしまいました。
公宗は誰と関わり、どのようなつながりを生かし、どう生きたのでしょうか。西園寺公宗の前半生について見ていきましょう。
朝廷と幕府の橋渡し!関東申次としての働きとその栄光
延慶3(1310)年、西園寺公宗は公卿・西園寺実衝の長男として生を受けました。
西園寺家は清華家に列する家で、貴族のなかで最上位となる五摂家に次ぐ家格です。
官職は大臣や大将を兼ねて、極官は太政大臣(太政官の最高職)となることのできる家でした。
西園寺家は、代々関東申次(かんとうもうしつぎ)という役職を継承。これは鎌倉幕府の六波羅探題と並んで朝廷と幕府の連絡・交渉・調整を行う役職です。
朝廷の重要事項の決定においては、関東申次を経て幕府の裁可を得る事になっていました。
その中には皇位継承や宮中人事も含まれており、関東申次の存在と立場がそこに深く関わっていました。
当然、朝廷内部における発言力も高く、その存在感から敵視されることもあったと伝わります。
当時の皇位継承問題においては持明院統と大覚寺統が対立。西園寺家は持明院統寄りの立場であったため、大覚寺統は関東申次を無視して幕府と交渉するなどしています。
このため、大覚寺統出身の後醍醐天皇は西園寺公宗をあまり快くは思っていませんでした。
しかしそういった状況とは裏腹に、公望は順調に出世を重ねていきます。
正中2(1325)年12月18日には権中納言(権官という定員外の中納言)に叙任。恐らくはこの前後に従三位となったと考えられます。
数え年16歳という若さで公卿(三位以上)となり、朝廷の意志決定に携わる立場となりました。
翌正中3年/嘉暦元(1326)年7月24日には春宮権大夫という皇太子の教育機関の要職を拝命。同年11月4日には正三位となって正式な東宮大夫に転じています。
実は後醍醐天皇の中宮(皇后)は、西園寺家出身の西園寺禧子(さちこ)であり、公宗にとっては大叔母に当たる人物でした。
後醍醐天皇との関係には一抹の不安要素がありつつも、それを解消あるいは緩和するだけのつながりと政治力が、公宗にはあったようです。
嘉暦2(1327)年には従二位に昇叙。元徳2(1330)年2月には権大納言を兼任して、3月に正二位に昇っています。
要職を歴任し、朝廷内で発言力のある公宗にとって、将来は明るいものでしかありませんでした。
2ページ目 後醍醐天皇の倒幕計画発覚!鎌倉時代、突然の終焉…

