【豊臣兄弟!】本能寺で信長に一番槍!森蘭丸を討ち取った武将・安田作兵衛の壮絶な生涯:3ページ目
信長の祟りで発狂?
しかし光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、落ち武者狩りで生命を落とすと、作兵衛は牢人となりました。
天野源右衛門(あまの げんゑもん)と改名した作兵衛は、羽柴秀勝(秀吉の養子)・羽柴秀長(小一郎)・蒲生氏郷(がもう うじさと)に仕えます。
しかしどの家でも上手く行かなかったようで、各地を転々と渡り歩くことになりました。武辺者ゆえに人付き合いは苦手だったのかもしれません。
さらに立花宗茂(たちばな むねしげ)や、従兄弟の寺沢広高(てらざわ ひろたか)に仕え、九州征伐や朝鮮征伐(文禄・慶長の役)で武功を立てています。晩年は平野と改姓し、寺沢家臣として生涯に幕を下ろしました。
作兵衛の没年については諸説あるそうで、『翁草』では慶長2年(1597年)6月2日、信長の祟りで発狂・自害したと言います(厳密には顔面の腫瘍を苦にしての自害)。本能寺の変からちょうど15年後だったので、人々がそう噂したのでしょう。
一方『美濃国諸家系譜』では、光秀の17回忌となる慶長3年(1598年)6月14日に追腹を切った(光秀に殉じた)と伝わります。
後者の方がまだ幸せと言えそうですが、いずれにしても天寿をまっとうできなかったことには変わりません。
作兵衛には安田光慶(みつよし/こうぎょう。安田検校)という息子や、天野作兵衛貞能(さだよし)という孫がいて、その家名を後世へ受け継いだそうです。
