『豊臣兄弟!』近づく半兵衛(菅田将暉)の最期、黒田官兵衛(倉悠貴)との熱い絆…天才軍師「両兵衛」を比較:3ページ目
竹中半兵衛と黒田官兵衛、人間性は
▪️半兵衛の人間力エピソード
天正6年(1578)、中国攻めのときのこと。毛利側に寝返った信長の家臣・荒木村重を説得するため、黒田官兵衛は、単身、村重の居城・有岡城(兵庫県伊丹市)に乗り込みます。
けれども、捉えられて幽閉されてしまいました。戻らない官兵衛に裏切ったかと怒った信長は、人質だった官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すように秀吉に命じます。
それに反対したのが竹中半兵衛でした。「松寿丸を殺せば官兵衛は深く恨み、完全に信長の敵となる」と説得するも信長は殺すように指示を出します。そこで、半兵衛は、松寿丸を美濃の自分の屋敷に匿いました。1年後にようやく官兵衛は有岡城から救出され、晴れて無実が証明されます。
官兵衛は、半兵衛がリスクを顧みずに自分のことを「裏切るわけはない」と信じ、息子を助けてくれたことに深く感謝したのでした。けれど、半兵衛はすでに亡くなっていたので感謝の気持ちを直接伝えられず、大号泣したそうです。
この前から、病に伏せがちだったという竹中半兵衛。もしかしたら、自身の命が長くないことを悟り、信長にばれる頃はもうこの世にいないと賭けに出たのかもしれません。命を救われた松寿丸子こと黒田長政は、半兵衛に敬意を払い、竹中家の黒餅を家紋としたのでした。
天正6年(1578年)、半兵衛がその生涯を終えたとき、秀吉は半兵衛の亡骸にすがりつき泣き崩れたそうです。
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▪️官兵衛の人間力エピソード
「説得によって敵を味方に寝返らせる」調略の名人で、知謀に秀でた策士として描かれることが多い黒田官兵衛。けれど、官兵衛は真っすぐな誠実さを持ち、温かな人間味にあふれる面倒見のよい人柄だったようです。
家臣を大切に育てることに若い頃から腐心し、育て上げた優秀な家臣たちとは家族のように深い絆で結ばれていたことでも知られています。
「知謀をもって敵城を降参せしめ和議を調え、人を殺さずして勝事を好みたまう」を旨とし、降参した敵の家臣も極力生かすように努め、望む者は自らの家臣として迎え入れることも多かったそうです。
裏切り・だまし討ちが日常茶飯事の戦国時代。「官兵衛ならば約束を反故にしない」と敵将も官兵衛の言葉に耳を傾けました。
秀吉は「自分が死んだら、官兵衛が天下を取るであろう」とその実力を高く評価していたものの、官兵衛のあまりの切れ者振りに恐れを抱くようになっていったとか。
「人として愛されたのは無欲の官兵衛」「知略と頭脳を信頼されたのは官兵衛」……そんな見方が近年の傾向だそうです。


