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『豊臣兄弟!』近づく半兵衛(菅田将暉)の最期、黒田官兵衛(倉悠貴)との熱い絆…天才軍師「両兵衛」を比較

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竹中半兵衛と黒田官兵衛、戦略や交渉術エピソード

二人の戦略や交渉術がうかがい知れるエピソードをご紹介しましょう。

▪️竹中半兵衛の戦術と交渉術

竹中半兵衛は、冷静な観察力で敵の戦略を見破るのを得意としていました。

・永禄13年(1570)「姉川の戦い」
織田軍と浅井・浅倉軍の「姉川の戦い」の際、数千もの浅井軍が横山城(現在の滋賀県長浜市)から出ていくのを、半兵衛は“織田軍を引きつける戦略”と見抜き、守りを固めることを主張。織田軍は兵を減らすことなく、横山城を包囲して浅井・浅倉軍との戦いの火蓋が切られたのでした。

・天正元年(1573)「小谷城の戦い」
その後も続いた織田軍と浅井・浅倉軍の戦い。半兵衛は、信長への反感が強いのは長政の父・久政で、長政はやむおえず追従しているという情報を得ます。そこで、浅井の居城・小谷城の、“長政のいる本丸”と“久政のいる小丸”の間にある京極丸を占拠し、親子の連絡網を断ちます。

小谷城は落城し久政・長政親子は自害。長政の妻・お市の方と3人の娘たちの救出に成功しました。

・天正3年(1575)「長篠の戦い」
織田と武田勝頼の戦いで、織田軍は鉄砲を使った画期的な作戦を展開しました。武田軍が兵を動かしたのをみて織田軍や秀吉は、横からの攻撃に備えて自軍を動かそうとするも、半兵衛は動かず。混乱させるための“武田軍の作戦”だと見抜いていたのでした。これによって秀吉は救われました。

▪️黒田官兵衛の戦術と交渉術

黒田官兵衛は、「城攻め」を得意としました。

・天正6年(1578)〜「三木合戦」
秀吉に仕えていた黒田官兵衛は、「三木城」(現在の兵庫県三木市)に籠城する別所長治に武力で対抗するのは難しいと考え、食糧補給手段を絶たせる「兵糧攻め」を秀吉に提案。攻略に成功します。

・天正9(15801年)「鳥取城の渇え殺し」
毛利軍との戦いでは、鳥取城を攻める1年前に商人たちを派遣して、収穫されたばかりの米を通常の倍の値段で買い取る作戦を実行。農民たちは、鳥取城に納めるはずの米や備蓄米まで売り払ってしまいます。

これが、非情なまでの兵糧攻め「鳥取城の渇え殺し」となりました。一説では人肉を喰らうものが出るほどの凄惨な状況となり、4ヶ月ほどで鳥取城は明け渡されたのでした。

・天正10年(1582年)「水攻め」
備中高松城(現在の岡山県)攻略の際には、地形を見て「水攻め」が適切だと判断した官兵衛は秀吉に進言。金銭や米と引き換えに、築城を得意にする建築者や周辺の農民を雇い、城近くを流れる足守川に堤防を築きます。降り続いた雨の助けもあり川は増水。水は城の周りに引き入れられ、備中高松城は湖に浮かぶ孤島と化したのでした。

毛利軍が駆け付けるも救援できる状況ではなく、城内の兵糧も尽き兵士達の疲労も極限状態。降伏を待つばかりの状況へと追い込んだのでした。

3ページ目 竹中半兵衛と黒田官兵衛、人間性は

 

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