【豊臣兄弟!】三成を“お姫様抱っこ”の藤堂高虎!史実でも主君を惹きつける超愛され武将だった:4ページ目
「あの世でも会いたい」と家康に言われ改宗
天正19年(1591)に秀長が死去、高虎は一時出家して高野山入りをするも秀吉の説得で還俗し、伊予国板島(現在の宇和島市)の大名となります。そして、秀吉が死去する直前に家康に近づき、豊臣氏の家臣団の分裂に際して徳川家康側につきました。
慶長5年の関ヶ原の戦いで功績をあげ徳川家の重臣となった高虎は、江戸城改築にも尽力。そのほかにも様々な活躍をして家康に高く評価されていきます。
高虎と家康がどんどん縁を深めていくエピソードはたくさんあるのですが、やはり一番その深さを感じるのが元和2年(1616)、病の床に臥していた家康が旅立つ前に、高虎と天海僧正を枕元に呼んだときの話でしょう。
家康は、これまでの忠義に対して礼をいい「そなたは日蓮宗で、わしは天台宗と、宗派が違う。だから、あの世で会えることがないやもしれん。それがつらい」といいました。
感動した高虎は涙ながらに「あの世でも大御所様のもとでお仕えしとうございます。すぐに、私は宗旨替えをして大御所様と同じ天台宗となりまする。」と、日蓮宗から天台宗に改宗したのでした。
さらに、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」という家康の遺言に従い、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領。東叡山寛永寺を開山しました。
境内には多くの伽藍が建立されたのですが、寛永4年(1627)その一つとして創建した神社「東照社」が『上野東照宮』の始まりです。 正保3年(1646)、朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。
境内には、高虎から奉納された、唯一台座が円形の銅灯籠も残っているそうです(国指定重要文化財)
