【豊臣兄弟!】三成を“お姫様抱っこ”の藤堂高虎!史実でも主君を惹きつける超愛され武将だった:3ページ目
20歳で17歳年上の秀長に支えた高虎
史実でも、天正4年(1576)20歳のとき高虎は「豊臣秀長に300石で仕え、冠名を与右衛門に改めている」とあります(『公室年譜略』)。秀長はこの時36〜37歳くらい。かなり年齢差があるので、親のように包み込むような目でみることができたのかもしれません。
その後、1581年に但馬国の土豪を討ち3,000石の所領をもらい、鉄砲大将に任命。さらに、中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに参加して活躍します。
その後紀州征伐でも大勝利をおさめ、戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられるとともに、猿岡山城、和歌山城の築城の際には普請奉行に任命されました。
作業動員数は約1万人ほどのリーダーとなったのです。これは、「築城の名手」と呼ばれる高虎の初期の仕事といわれています。高虎はなぜ築城に興味を持ち、技術は誰からどう学んでいったのか……はよくわかりません。持って生まれし“ギフト“だったのか、向上心や努力の人だったのか。
和歌山城は当時の建物は現存していないものの、『和歌山城公園』として整備され多くの人が訪れる人気スポットとなっています。
図面を書き直し自腹で追加工事をする
天正14年(1586)、高虎のずば抜けた建築の才能を認めていた秀長は、聚楽第の邸内に、上洛する徳川家康をもてなす屋敷を作るため『作事奉行』に任命します。
その際に、関白となった秀吉が自ら設計した図面を渡しました。設計そのものが間違っていたわけではないのですが、高虎は、屋敷が公家風の華奢な構造だったために警備上「危うい」と気がつきます。
脆弱な箇所を強化するために、屋敷の周囲に外構えと外門の設置を考えたものの、それでは追加費用がかかってしまいます。もし、そんなことを申し出たら秀吉の不興を買い、秀長にも迷惑がかかると悩み、高虎は費用は自己負担しようと決め、設計図を書き直し工事を進めました。
出来上がった屋敷に入り、事前に知らされていた設計とは違うことに気がついた家康は高虎を問いただし、その事実を聞きました。そして、高虎の才能と気遣いと機転に大いに感動、高く評価して親交を深めていったそうです。

