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京都 三条大橋「土下座像」の正体は? 実は土下座ではなかった尊皇思想家・高山彦九郎の忠義心【後編】

京都 三条大橋「土下座像」の正体は? 実は土下座ではなかった尊皇思想家・高山彦九郎の忠義心【後編】

京都の三条大橋を渡ったことがある人なら、橋のたもとにひとつの銅像を見たことがありますよね?皇居の方角に深く頭を下げる姿から「土下座像」と呼ばれています。

あれは高山彦九郎(1747年〈延享4年〉–1793年〈寛政5年〉)という人物の像です。

前編の記事↓

京都 三条大橋「土下座像」の正体は? 実は土下座ではなかった尊皇思想家・高山彦九郎の忠義心【前編】

京都の三条大橋を渡ったことがある人なら、橋のたもとにひとつの銅像を見たことがありますよね?皇居の方角に深く頭を下げる姿から「土下座像」と呼ばれています。待ち合わせ場所としても知られていますが、…

【後編】は、彦九郎の各地での人々の出会いと交流について紹介していきたいと思います。

各地での交流

京都では公卿の伏原宣條や岩倉具選と交わり、芝山持豊から和歌の添削を受けています。米沢では上杉鷹山に請われ、藩校興譲館で講話を行いました。仙台では林子平を訪ね、熊本では藩校時習館の若者たちと議論を重ねました。

江戸では杉田玄白や大槻玄沢、水戸では藤田幽谷らと交流し、尊皇の志を各地に伝えていきました。旅は学びと伝達の営みでもあったのです。

久留米での最期

1793年(寛政5年)、九州を巡っていた彦九郎は久留米の医師・森嘉膳宅に滞在していました。6月27日の夜、突然自刃し、翌日息を引き取りました。46歳の生涯でした。

辞世には「朽はてて身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」とあります。死の理由については定かではありません。自ら「狂気」と答えた記録が残る一方で、薩摩説得の失敗や幕府の監視を苦にしたとも言われます。いずれにせよ、彼は「志に殉じた人」として語られることになりました。

2ページ目 高山彦九郎 死後の評価

 

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