【豊臣兄弟!】ドラマの信長像を決定づけた男…貴重な史料『信長公記』の著者・太田牛一は何者なのか
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』を見ていると、どうしても気になってくるのが織田信長の存在です。戦の天才として描かれる一方で、家中の人事や家臣たちの距離感など、「この信長像、史実ではどうだったの?」と感じた人も多いのではないでしょうか。
私たちが“史実の信長”を語れるのは、ドラマの元ネタになる一次史料が残っているからです。
その代表が、信長の一代記として有名な『信長公記』(しんちょうこうき、のぶながこうき)です。そしてこれを書き上げたのが太田牛一(おおた ぎゅういち)という人物。
そこで本稿では、信長研究に欠かせない『信長公記』の著者・太田牛一とはどんな人物だったのかを、前半は生い立ち、後半は織田信長、丹羽長秀、豊臣秀吉へと仕えた経歴とともにたどります。
太田牛一の幼少期・若年期
太田牛一(おおたぎゅういち/うしかず/うしかつ)は、大永7年(1527年)、尾張春日井郡山田庄安食郷(現在の愛知県春日井市・西春日井郡・名古屋市の一部)に生まれました。土豪の家だったと考えられています。ちなみに、信長は天文3年(1534年)生まれのため、信長よりも年上になります。
牛一の幼少期については、資料などが残っておらず、謎に包まれたまま。もともとは成願寺において僧侶をしていましたが、還俗し斯波義統(しばよしむね)の家臣となり、その後柴田勝家に仕え足軽衆となりました。
信長の家臣に
弓の腕前を認められた牛一は、信長の家臣となります。永禄8年(1565)の堂洞城(美濃中部)攻めでは、百発百中で敵に矢を命中させたというエピソードも。信長の身辺を警護する武勇に優れた「六人衆」のうちの一人としても知られています。
※参考記事:
『豊臣兄弟!』あれは不穏な伏線!?藤吉郎に容赦ない稽古をつけた六人衆・城戸小左衛門の正体
その後、官僚のような役割にシフトしていきます。
本能寺の変の後は丹羽長秀、豊臣秀吉に仕える
本能寺の変で信長が亡くなったあとは、信長の家臣・丹羽長秀に仕えました。
【豊臣兄弟!】地味だが最強の名臣・丹羽長秀!織田信長が手放さなかった3つの理由
天正13年(1585年)に長秀が亡くなったあとについては、「丹羽長秀の子・丹羽長重に仕えていた説」「加賀松任で蟄居していた説」などさまざまな説があり、はっきりとしていません。
しかし、その後豊臣秀吉に召し出され、彼に仕えることに。行政官僚として、寺社行政や検地などに携わりました。秀吉が亡くなると、豊臣秀頼に仕えましたが、隠居し、「信長公記」や「大かうさまくんきのうち」などを執筆していきます。
「信長公記」が特に優れているとされるのは、その緻密さ・正確さです。全部で15巻あり、1巻が1年を扱っています。それぞれ年月日を記してまとめられています。
太田牛一の死については、明確にわかっていませんが、大坂の役前後あたり(慶長18年(1613)という説があります)で亡くなったのではないかと推測されています。
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