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京都 三条大橋「土下座像」の正体は? 実は土下座ではなかった尊皇思想家・高山彦九郎の忠義心【前編】

京都 三条大橋「土下座像」の正体は? 実は土下座ではなかった尊皇思想家・高山彦九郎の忠義心【前編】

京都の三条大橋を渡ったことがある人なら、橋のたもとにひとつの銅像を見たことがありますよね?皇居の方角に深く頭を下げる姿から「土下座像」と呼ばれています。

待ち合わせ場所としても知られていますが、あれは高山彦九郎(1747年〈延享4年〉–1793年〈寛政5年〉)という人物の像です。

江戸時代後期の尊皇思想家で、「寛政の三奇人」のひとり。

奇こそ我らの誉!江戸時代、尊王論と海防論の先駆者となった「寛政の三奇人」を紹介

江戸時代の終盤にあたる寛政期では寛政の三奇人なる3人が現れました。この3人に使われている「奇」はおかしな人という意味ではなく優れた人という意味で使われていました。何が優れていたかというと後の…

彼は生涯の大半を旅に費やし、各地で出会った人びとや出来事を日記に残しました。その記録は幕末の志士たちにも読まれ、大きな影響を与えました。

ここではまず、彦九郎がどう志を抱き、どのように旅を重ねたのかを見ていきましょう。

少年の日と出奔

1747年(延享4年)、上野国細谷村(現在の群馬県太田市)に生まれました。父は郷士の高山彦八正教。家の由来をたどると、新田義貞に仕えた高山重栄に行き着きます。

13歳のときに『太平記』を読み、強い感銘を受けました。1764年(明和元年)、18歳のときには郷里に置き文を残し、京都へ出奔。岡白駒に学んだとされますが、正式な弟子ではなく、自ら尊皇の学を求める道を選びました。

のちに江戸へ出て、儒学者・細井平洲に学びます。父の仇討ちを相談したところ、平洲にいさめられた話が伝わります。これを機に、武力ではなく学問や実践によって志を示す生き方へと傾いていきました。

江戸ではまた、蘭学者の前野良沢の家に出入りし、杉田玄白や大槻玄沢らとも親交を結びました。和歌を詠み、議論を重ね、人脈を広げていきます。

2ページ目 旅の始まり〜皇居望拝

 

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