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「べらぼう」吉原遊郭での”芸者”の役割とは?裏では遊女の領域を侵し検挙される事件も【後編】

「べらぼう」吉原遊郭での”芸者”の役割とは?裏では遊女の領域を侵し検挙される事件も【後編】:3ページ目

幕府公認の唯一の芸者として高い格式をもつ

芸者には、遊女の領域を絶対に侵してはならないという不文律がありました。一方、遊女も芸者を認め、それに配慮して振る舞うという暗黙の了解があったのです。

しかし、どの世界でも表と裏があるように、表向きは芸者を装っていても、裏では客をとって春を売る芸者がいました。

かの深川芸者でさえ、二枚看板を生業とする者がおり、115名もの私娼を兼ねていた芸者が検挙される事件が起こり、吉原遊郭にその身柄を移されたとされます。

では、吉原はなぜ彼女たちを受け入れたのでしょうか。実は、吉原でも芸者が誕生して10年ほど経っても、まだ身体を売る芸者が存在していたのです。

遊郭というある意味洗練された場所で芸を披露する吉原芸者は、客扱いが上手かったことから人気を呼び、遊女の営業を脅かすほどの存在になっていたという説もあります。

そのため、芸事に秀でた芸者には芸に専念させ、色を売ることからから手を引かせるという取り組みが廓を挙げて、大々的に行われていたのです。

そして、1779(安永8)年に、「見番(けんばん)」制度が設けられます。

この制度は、芸者人別帳をつくり芸者を登録させます。登録した芸者だけが茶屋へ派遣することができ、これにより芸者と客との情事を禁じ、さらに芸者が勝手に廓から外に出ないように監視したのです。

また、芸者か遊女か一目で分かるように、服装や髪形に関するルールも決められました。 遊女の帯の結び目が前面(前帯)なのに対して、芸者は前帯をぐるりと背面に回して垂らした形にするようになります。こうして芸者による売春は影をひそめ、芸者は芸事のみに専念するようになりました。

見番制度は、芸者の自由を奪うものと思われますが、かえって吉原芸者のブランド価値を高める結果となったのです。

吉原芸者の身なりは、花魁などの高級遊女に遠慮してか、かなり地味な拵えであったようです。着物は紋つき、裾まわしは紺色の絹と決まっていました。襟が白いのも吉原だけで、これは吉原芸者だけに与えられた特権でもありました。

このようにして、吉原芸者には幕府より唯一公認された芸者として、芸だけで生きていくという誇りと高い格式が与えられたのです。

※参考文献
菊池ひと美著 『花の大江戸風俗案内』ちくま文庫
樋口清之著 『もう一つの歴史をつくった女たち』 ごま書房新社

 

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