「べらぼう」吉原遊郭での”芸者”の役割とは?裏では遊女の領域を侵し検挙される事件も【後編】
江戸時代の吉原遊郭を舞台にストーリーが展開する大河ドラマ「べらぼう」。
作中では、花野井(小芝風花)や誰袖(福原遥)といった遊女たちにスポットが当たりがちですが、吉原には遊女のほかにも多くの芸者が存在しました。
彼女たちは春をひさぐのではなく、芸を売ることで吉原の遊郭文化を支え盛り上げた、もう一方の主役とも言える存在だったのです。
※【前編】の記事↓
大河「べらぼう」吉原遊郭での”芸者”の役割とは?遊女との違いはどこにあるのか?【前編】
【後編】では、そうした吉原の芸者たちに焦点を当ててご紹介していきましょう。
遊女と芸者が区別される背景にいた高級遊女
吉原芸者の誕生は、朋誠堂喜三二(尾美としのり)が記した随筆『後はむかし物語』によると、宝暦年間(1751~1764年)頃とされています。同書には、この頃には芸者も張見世に出て客を取っていたと記されており、これにより吉原芸者は、遊女の中でも三味線や唄などの芸に優れた者が、次第に芸者として独立していったと考えられます。
やがて吉原では、遊女と芸者の役割に明確な区別がつくようになります。その背景には、高級遊女である太夫などの存在がありました。
ここでひとつ遊女の格付けについて確認しておきましょう。吉原におけるそれは、江戸時代を通じて幾度も変化しました。元禄・享保の頃には、最高位が太夫、次の格子女郎までが上位の遊女とされ、中位には散茶女郎や梅茶女郎、最下位には切見世(局)女郎が位置づけられていました。
これが「べらぼう」で描かれる宝暦から天明期になると、太夫・格子という呼称は姿を消し、散茶が呼出(よびだし)・昼三(ちゅうさん)・附廻(つけまわし)に分かれて、上位へ格上げされます。梅茶は座敷持・部屋持の中位となり、最下位は変わらず切見世でした。
少し補足すると、「べらぼう」の時代には、実際には太夫と呼ばれる遊女は存在しておらず、そのため、呼出の花野井(小芝風花)が「瀬川」という花魁の名跡を継ぐことになったのです。なお、花魁とは遊女の身分を指す言葉ではなく、禿(かむろ)を従えて花魁道中を行うことができる高級遊女の称号でした。
いずれにせよ、吉原には、太夫や呼出といった高級遊女と、春を売ることのみに従事する一般の遊女という、二つの階層が存在していたのです。



