「べらぼう」吉原遊郭での”芸者”の役割とは?裏では遊女の領域を侵し検挙される事件も【後編】:2ページ目
茶屋での宴を諸芸で盛り上げた芸者たち
幕府公認の吉原遊郭では、高級遊女に格式が与えられていました。そのため、茶道・華道・和歌など、諸芸に秀でていることが求められました。花野井や誰袖(福原遥)が、こともなげに西行などの和歌を口ずさむことができるのも、そのような教育を受けていたからです。
さらに、高級遊女には「気位(きぐらい)」の高さも求められました。彼女たちは、ほとんどといってよいほど初回から客と同衾することはありません。太夫たちは身体を売ることに一種の拒否権を持っており、気に入らない客に対しては、何度でも袖にすることが可能だったのです。
もし、客が揚げ代を払ったにもかかわらず、「床入りを拒否された」と声高に訴えた場合、かえってその客が「無粋」と見なされ、吉原全体から冷たい目を向けられてしまいます。
このように、客は高級遊女を茶屋に呼び、何度もご機嫌を取らねばなりません。一方、太夫たちは床柱を背にして客の上座に座り、客を見ようともせず、澄ました態度を取ります。こうしたやり取りが、少なくとも数回は繰り返されるのです。
とはいえ、これが廓の掟であっても、客にとっては面白いものではありません。そこで登場するのが芸者でした。芸者は三味線を弾き、さまざまな芸を披露して宴席を盛り上げ、客の気分を損なわないよう、太夫との間をうまく取り持ったのです。

