
戦国時代、バテレン追放令の波に翻弄された「天正遣欧少年使節」4人の少年たちのその後の運命:2ページ目
司祭となるも志半ばで終わりを迎えた伊東マンショ
天正遣欧少年使節でミゲルと同じ正使だった伊東マンショは、ミゲルが脱会後も原マルティノと中浦ジュリアンと共に神学を勉強し続けます。そして慶長13年(1608)には、晴れて司祭の身となりました。
その後は細川忠興が治める豊前国小倉で活動をしています。しかし、江戸幕府が禁教の流れとなっていくと、忠興は慶長16年(1611)にマンショを追放しました。
マンショは長崎に拠点を移し活動していましたが、翌年に病死しました。
3ページ目 禁教の流れに翻弄された原マルティノと中浦ジュリアン