ライバルだった蔦屋重三郎(横浜流星)と西村屋与八(西村まさ彦)。二人の性格は対照的!?【大河ドラマべらぼう】:2ページ目
対して西村屋与八は?
何もないところから出版界へ乗り込み、若き才能を育ててのし上がった蔦重。
それに対して、地本問屋として伝統的な権威を受け継いできた西村屋与八は殿様商売とも言える強気な経営姿勢が目立ったようです。
仮に蔦重の出版物がマイナーな同人誌だとすれば、西村屋与八の出版物はメジャーな商業誌。
もちろん同人誌だろうが商業誌だろうが、大切なのは中身です。しかし権威やブランドという面から見れば、どうしても商業誌の方が「ちゃんとしたもの」として見られやすい傾向は否めません。
蔦重が作家たちに対して腰低く「書いてor描いていただけませんか?」とアプローチしたのに対して、西村屋与八は「載せてやるからありがたく思え」と言わんばかり。
もちろん報酬について差が出るのは言うまでもありません。売れっ子作家であっても原稿料なんてほとんどなく、駆け出し作家に至っては、入銀と称して掲載(していただく)料を支払う始末でした。
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それでもお江戸の西村屋様が載せて下さると言うなら……今後名前が売れることを期待して、駆け出し作家たちは入銀を収めたと言います。
これは鶴屋喜右衛門(風間俊介)や鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)も大して変わりませんでした。
と言って我らが蔦重にしても、資金がそれほど潤沢でもなかったでしょうから、他の本屋らと五十歩百歩だったものと考えられます。
終わりに
蔦重と交流のあった狂歌師の宿屋飯盛(やどやの めしもり。石川雅望)は、蔦重についてこのように評しました。
「秀れた気性をもち、度量が大きく細かいことにこだわらず、人に対しては信義を尊重する」
生まれ育った吉原遊廓で若い作家たちと大いに遊んで大志を語り合い、ともに成長していった蔦重。
先ほど紹介した他にも十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)や東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)など多くの才能を発掘できたのは、彼ら創作者に対する理解と尊敬の念ゆえだったのではないでしょうか。
これからも多くの作家たちと共に成長しながら、時代を作っていく蔦重の活躍を楽しみにしていきましょう!
※参考文献:
- 松木寛『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』講談社、2002年


