
戦国時代の「抜け駆け」は命懸け!?徳川家康はルールを破った家臣をどう処罰したか
今も使われる「抜け駆け」という言葉
「抜け駆け」という言葉は現代でもごく普通に使われていますね。特定の集団の中で、一人だけ他人を出し抜いて先に行動し、利益を得ようとする行動のことです。
実はこの言葉は非常に古いもので、戦国時代の合戦に由来します。
抜け駆けという言葉は今でもあまり良いニュアンスで使われることは少なく、どこか「裏切り」「背信」と通じるものがありますね。
とは言っても、抜け駆けしたというだけで処罰されることは、普通はありません。
しかし戦国時代は違っていました。抜け駆けをした者は、時として命をもって償わなければならなかったのです。
今回はそんな「抜け駆け」の語源と、それにまつわる切実なエピソードをご紹介しましょう。
明確なズル
先に述べた通り、特定の集団で一人だけ密かに人を出し抜く人・ことが「抜け駆け」ですが、これは戦国時代の合戦に由来します。
もともとは、合戦において、他の人より先にこっそり陣を抜け出して功績を立てようと敵中に攻め入ることを指す言葉だったのです。
これは明確な「ズル」でした。
しかしこうした抜け駆けは、合戦中、功名を願う武者の頭には常にちらついていたに違いありません。
後方の部隊にいる兵にとっては、一番槍や一番首の名誉にありつくのはとても無理な話です。そこで、密かに前線に出て、出先鋒より先に敵陣を襲撃するのは甘美な誘惑だったことでしょう。
しかし、こうした抜け駆け行為の難しいところは、それを実行する当人にとっても、また軍勢全体にとっても非常にリスキーだという点です。
確かに、抜け駆けが成功して敵陣が混乱すれば、勝利を収めることもできるでしょう。しかし失敗すれば、逆に自陣が切り崩され、敗北に至ることもあるのです。
そんなリスクがあるため、戦国大名のほとんどは抜け駆けを厳しく禁じていました。一人の抜け駆けを許せば軍規が緩み、その後の作戦に支障をきたすと考えたからです。