戦国時代の「抜け駆け」は命懸け!?徳川家康はルールを破った家臣をどう処罰したか:2ページ目
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徳川家康のケース
一例として、徳川家康は抜け駆け行為に対して厳罰で臨んでいます。
1578年(天正6)、徳川軍が、武田勝頼の軍勢と遠江掛川付近で戦ったときのことです。家臣の大須賀小吉が抜け駆けを行いました。
小吉は旗本衆よりも前に出て、軍功を挙げようとしたのです。彼は奮戦したものの、家康はこの抜け駆けを許しませんでした。
小吉のおじにあたる大須賀康高は家康の重臣で、もとは家中においてかなりの武功を挙げたことで徳川二十将の一人として数えられる人物です。
後世ではあまり目立ちませんが、実際は徳川四天王や大久保忠世・鳥居元忠らに匹敵する武功を挙げた人物だといわれています。
そんな彼がとりなしても家康の考えは変わらず、小吉は切腹させられることになりました。
当時「抜け駆け」には、こうした罰が待っていることもあったのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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