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「哀しくとも」生きのびた先に待っていたのは…「光る君へ」史実を基に12月8日放送回を振り返り

「哀しくとも」生きのびた先に待っていたのは…「光る君へ」史実を基に12月8日放送回を振り返り:3ページ目

武者たちの活躍

さて、刀伊の入寇では多くの武者たちが軍功を立てました。

ここでは大河ドラマには登場しなかった、描かれなかった活躍を一部紹介したいと思います。

……太宰注進成勲功者、散位平朝臣為賢、前大監藤原助高、傔仗大蔵光弘、藤原友近、友近随兵紀重方、以上五人、警固所、合戦之場、相戦者雖数多、賊徒正中件為賢等矢……

※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条

【意訳】大宰府から勲功の注進があった者は、以下の5名。

  • 平為賢(散位)
  • 藤原助高(前大宰大監)
  • 大蔵光弘(傔仗。大蔵種材の子)
  • 藤原友近(無位無官)
  • 紀重方(友近の随兵)

博多の警固所では多くの武者たちが戦ったが、賊徒らを仕留めた矢の多くは彼らが射たものであった。

同国怡土郡住人多治久明、

賊徒到来之間、於當郡青木村南山辺相戦、賊徒合戦、射取賊一人、斬其首進府者、先日解文難注子細、仍件久明自漏矣、

※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条

【意訳】多治久明(たじの ひさあきら)は筑前国怡土郡の住人(無位無官の武者)である。

怡土郡青木村の南にある山辺で賊徒と戦い、一人を射殺し、その首を斬って大宰府へ献上した。

前肥前介源知、

賊徒還却之間、於肥前国松浦郡合戦之間、多射賊徒、又生捕進一人、

※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条

【意訳】源知(みなもとの しるす/さとる)は前肥前介(元国司次官)である。

賊徒が肥前国松浦郡まで敗走してきた際、これを追撃する。多くの賊徒を射殺し、一人を生け捕りにした。

壱岐講師常覚、

賊徒三襲、毎度撃返、後不堪数百之衆、一身迯脱、身雖非在俗、其忠義不可隠、

※『小右記』寛仁3年(1019年)6月29日条

【意訳】常覚(じょうがく)は壱岐島分寺(国分寺)の講師であった。

賊徒が寺を襲撃すること三度、すべて撃退した。しかし数百もの敵を防ぎ切れず、ただ一人で脱出する。出家の身ではなくが、その忠義は決して隠れるものではない。

大河ドラマではただボロボロになって大宰府へ逃げ込んだように描かれていた常覚(タイソン大屋)。

壱岐守である藤原理忠(まさただ)らが玉砕した後、島民や僧侶だけで三度も賊徒を撃退した勇姿も観たかったですね。

恩賞には与れなかったものの、彼らの武功は人々から高く評価されたことでしょう。

4ページ目 備前介となった源隆国って誰?

 

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