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南北朝時代、そもそも後醍醐天皇はなぜ「吉野」の地を根拠地としたのか?その3つの理由

南北朝時代、そもそも後醍醐天皇はなぜ「吉野」の地を根拠地としたのか?その3つの理由:2ページ目

吉野は防御・補給に適していた

後醍醐天皇が新たな根拠地として吉野を選んだのは、おもに三つの理由があったと考えられています。

一つは、吉野が山岳地帯であり、地形的に攻められにくいことです。

吉野の南方には紀伊山地があり、南側の防衛を考慮する必要がなかったことに加え、西方は楠木一族が本拠とする河内・和泉に近いという位置関係にありました。

また、東は伊賀を通じて北畠親房のいる伊勢へ通じており、防御を固めやすかったのです。

二つめは、山岳地帯でありながら河内・和泉や伊勢へ通じているため、吉野を根拠地とすることで補給ルートを確保できることが挙げられるでしょう。

特に伊勢大湊から東海・品川方面への海路が開けていましたし、紀ノ川を下って和歌山へ出ると、瀬戸内海交通の要衝であるにもつながっていました。

三つめは、後醍醐天皇自身が真言密教宗派に太い人脈を持っており、吉野で修行する修験者を味方につけられたことが挙げられます。

当時の熊野の修験勢力は強力な水軍をもっていたので、この地で海上ルートを確保することで、後醍醐天皇は大きな戦力を得ることにつながったのです。

このように見ていくと、後醍醐天皇は単に吉野へ「逃亡」したわけではなく、あくまでも今後の戦のことを考えながら移動したことが分かります。彼が吉野に逃れることには大きな意味があったのです。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:Wikipedia

 

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