1612(慶長17)年4月13日、剣豪・宮本武蔵と巌流島(山口県下関市)で闘って敗れた佐々木小次郎。彼は決闘のあと、どうなったのでしょうか?
実は通説では戦いに敗れた小次郎は命を落としたとされていますが、実は生きていたとする説があることはご存知でしたでしょうか。
そのことが書かれているのが細川藩家老であった沼田延元の記録をもとに再構成された書物『沼田家記』。そしてこの書によれば武蔵との決闘において、小次郎は実は死に至らしめておらず、その後も小次郎は生きていたとのこと。
実際に小次郎を殺したのは武蔵の弟子たちで、小次郎が巌流島にて没したのは通説と変更はありませんが、武蔵が息の根を止めたわけではないといいます。
面白いことに巌流島のすぐ西にある彦島には「彦島弟子待町」という地名が残されており、そこには小次郎の弟子たちが巌流島の決闘を遠くから見守っていたという話が伝わっています。
この彦島東沿岸から巌流島までの距離はおよそ300mほどで、伝説のように弟子たちが師の決闘の様子を見守ることも不可能ではなかったと推測することも可能です。