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あの坂本龍馬を捕殺!?約400名で組織された幕末の治安維持部隊「京都見廻組」の実態【後編】

あの坂本龍馬を捕殺!?約400名で組織された幕末の治安維持部隊「京都見廻組」の実態【後編】:2ページ目

組織の崩壊

京都の治安維持に尽力した京都見廻組であったが、王政復古の大号令による徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍辞任、江戸幕府の廃止による幕藩体制の終焉に伴って崩壊を余儀なくされる。

徳川15代将軍「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」

1868年から起こった新政府軍と旧幕府軍の戦いである戊辰戦争では、旧幕府軍として参戦。鳥羽伏見の戦いにおける敗戦によって大阪へ敗走する。

徳川15代将軍就任以降、畿内を離れなかった徳川慶喜の大阪城脱出と共に江戸へ帰還。後に狙撃隊と隊名を改めるも、1868年6月に解体となった。

隊士たちのその後

京都見廻組の中心人物であった佐々木只三郎は、旧幕府軍として参戦した鳥羽伏見の戦いにおいて被弾し、重傷を負って戦線を離れる。敗走中の和歌山の地で没した。享年36。

今井信郎は鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍の歩兵を集めて新たに結成された組織である衝鋒隊(しょうほうたい)の副隊長に就任。函館まで転戦し降伏した。

その後は、身柄を拘束されるも1872年に釈放。西郷隆盛との人脈を通じ、新政府に一矢報いようと鹿児島へ向かうも、西郷の戦死を受けて頓挫する。

晩年は武士を引退。キリスト教に帰依し静岡県の初倉村の村長として尽力した。

1918年死去。享年78。今井が生前に語った坂本龍馬殺害(近江屋事件)の真相は、現在最も信憑性の高い定説となっている。

 

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