「元寇」は北海道や沖縄でも起きていた!実は”神風神話”もフィクション?近年の歴史解釈を紹介
まず名称が違う
歴史上、日本がモンゴルと戦った事件といえば、今でも多くの人が「元寇(げんこう)」という言葉を思い浮かべるでしょう。
対応をミスった鎌倉幕府。モンゴル・高麗による日本侵攻「元寇」は神風がなくても防げた?
モンゴルに日本を征服する気はなかった皆さんは「元寇(げんこう)」をご存じですか。鎌倉時代中期に、当時のモンゴル帝国と高麗によって行われた日本侵攻です。1度目を文永の役、2度目を弘安の役と呼びます。…
今回はこの「元寇」という言葉の扱いと、世界史的な視野で見た場合の、当時のモンゴルとの戦闘の実態について解説します。
蒙古襲来絵詞前巻、絵七。文永の役の様子が描かれている(Wikipediaより)
モンゴル、もとい当時の元帝国は北九州へ二回侵攻しています。1274(文永1)年の文永の役、1281(弘安4)年の弘安の役です。かつては、これらを総称して「元寇」と説明していました。
元寇という言葉は、江戸時代にかの徳川光圀が編纂した『大日本史』の中で使われた言葉です。
ではモンゴルとの戦闘があった13世紀当時はどうだったかというと、その頃は元寇とは呼ばれておらず、史料的には蒙古合戦や異国合戦という表現が一般的でした。
「寇」という文字を用いて「元寇始末」「蒙古寇」という表記が見られるようになったのはあくまでも江戸時代以降のことです。
ちなみに「蒙古」という言葉はモンゴル帝国自身が中国語で表記しているものです。
そんなこともあり、現代の教科書では元寇という言葉は使われておらず蒙古襲来という表記が基本です。