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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」もう君と同じ星は見えない…第40回放送「天下人家康」振り返り

「どうする家康」もう君と同じ星は見えない…第40回放送「天下人家康」振り返り:2ページ目

一、石田三成襲撃事件について

朝鮮出兵における不満を募らせていた武断派の者たち。彼らを抑えていた前田利家の死によってタガが外れ、ついに彼らが石田三成を襲撃します。

事件の様子は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』にも書かれていました。

……加藤主計頭清正。同左馬助嘉明。浅野左京大夫幸長。池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則。黒田甲斐守長政。細川越中守忠興の七人の徒。先年朝鮮の戦にいづれも千辛萬苦して軍忠を励み。武名を異城(原文ママ。域か)にまでかゞやかせしが。其比石田三成軍監として賞罰己が意にまかせ。偏頗の取計のみして。帰陣の後太閤へさまざま讒せしにより。この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず。……

  • 加藤清正(淵上泰史)
  • 加藤嘉明(秀吉子飼いの武将)
  • 浅野幸長(浅野長政の子)
  • 池田輝政(家康の娘婿)
  • 福島正則(深水元基)
  • 黒田長政(阿部進之介)
  • 細川忠興(細川幽斎の子、細川ガラシャの夫)

彼らは朝鮮出兵における苦境の中、目覚しい武勲を立てました。しかし三成が彼らの報告を握りつぶしたため、秀吉から十分な恩賞に与れなかったそうです。

……よて七人会議して三成を打果し。舊怨を報ひむとするにより。大坂中殊の外騒擾に及び。三成も宥窮志てせむすべ志らざる所に。佐竹義宣は三成とは無二の親交にして。且頗る義気あるものなれば。ひそかに三成を女輿にのせてをのれ付そひ。大坂をぬけいで伏見に来り。……

「かくなる上は治部少輔(三成)を討つべし!」

七人は合議して大坂にいた三成を襲撃。慌てた三成は親友であった佐竹義宣を頼りました。

佐竹義宣は常陸国(茨城県)の大名で、義気に篤い性格ゆえ窮地の三成を救出します。

「さぁ、治部殿こちらへ!」

女性物の輿に三成を乗せて自ら護衛し、伏見の徳川屋敷へ駆け込んだのでした。

……向島の御館に参りてさまざま歎訴し奉れば。 君には何事も我はからひにまかせらるべしと御承諾ましまし。やがて御使を七人の方へ遣はされ。仰■■れしは。当時秀頼幼程におはせば。天下物志づかにあらまほしく誰も思ふ所なり。まして人々はいづれも故太閤恩顧の深きことなれば尚更なるべし。三成が舊悪はいふまでもなけれど、彼已に人々の猛勢に恐れて。当地までも逃来りし上は。おのおのの宿意もまづ達せしなればこれまでに致され。此上は穏便の所置あらむとこそあらまほしけれとの御錠なり。……

向島というのは巨椋池(現在は消滅)に浮かぶ島で、伏見城の位置から向かいにありました。ここに家康の屋敷があり、逃げ込んできた三成を快く受け入れたと言います。

「相分かった。彼らはわしが説得しよう」

家康は七将に対してなだめる使者を遣わしました。

「いま大坂城におわす秀頼ぎみは未だ幼く、我らが天下を平穏にお支えせねばならん。特にそなた達は亡き太閤殿下から深く御恩をうけたのだから、尚更であろう」

「確かにそなた達の不満はもっともで、これは治部めの落ち度に他ならない。しかし此度わしを頼って来たからには、わしも治部を守らぬ訳には行かんのだ」

「そなた達とここで争うのは容易いが、天下平穏のため治部めを震え上がらせたところで矛を収めてはくれまいかのぅ」

さて、これを聞いた七将の反応やいかに。

……この時七人の者は三成をうちもらせしをいきどほり。伏見まで馳来り。是非討果さむとひしめく所に。かく理非を分てねもごろの仰なれば。さすが盛慮に背きがたく。まげて従服し奉りぬ。されど三成かくてあらむも世のはゞかりあれば。佐和山に引籠るべしと仰られて。結城三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば。三成もからうじて虎口をのがれ。己が居城に還る事を得たり。……

「おのれ、治部めを討ち損じたわ!」

七将は家康の元へ逃げ込んだ三成を討つことが出来ず、地団駄を踏む思いだったことでしょう。

やむなく兵を引き上げて行った一方、家康は三成に謹慎を命じます。

「そなたを守って何もせぬでは、連中も気が済むまい。しばし近江佐和山にて落ち着かれよ」

「……忝(かたじけな)い」

伏見から佐和山への道中は危険なので、家康は次男の結城秀康に護衛させ、三成は無事に帰り着いたのでした。

……そのそも三成 当家をかたぶけ奉らむ等とはかりしこと一日に非ずといへども。またその窮苦を見給ひては。仁慈の御念を動かし救済せしめたまふ御事。さりとは寛容深仁の至感ずるにあまりありといふべきにぞ。(天元實記。)

※『東照宮御実紀附録』巻八「加藤清正等七将興三成確執」

かくして収まった七将の三成襲撃事件。そもそも三成が家康を亡き者にせんと企んだことは、一度二度ではありませんでした。

それでもあえて怨みを見せず、三成を保護したのはもちろん今後のため。

「せっかく豊臣政権内部に対立の火種がおるのだから、生かしておけば今後ますます燃え盛ろうて」……家康は、そういうヤツだったようです。

3ページ目 たぶん今回初登場の武将たち

 

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