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どうか殿下の陣羽織を!徳川家康が豊臣秀吉にねだった理由とは【どうする家康】:3ページ目
翌年、駿府城にて
……次の年駿城にて井伊直政。本多正信に。去年秀吉が許にて我に陣羽織を所望せしめしは。 家康が一言にて四国中国の者を鎮服せしめん為なり。次に近所へゆくにも二万か三万かといひしは。兵威もて我をおどさんとてなり。例の秀吉が権詐よと仰られしとぞ。はたして其事十日を過ずして。四国中国はさらなり。しらぬひや筑紫のはてまでもいひ傳へて。関白の兵威の盛なるを称しけり。又あるときの仰に。わが上京せしとき秀吉ひそかに旅館に来り我にむかひ三度まで拝礼す。その事しりし秀長。浅野長政。加々爪某。茶屋四郎次郎四人には誓紙させ他言をとゞめしときく。かく諸大名を出し抜て事をはかる人には。中々力押にはなりながたし。よくよく時節を待て工夫あるべしと仰せありしとぞ。(續武家閑談。)
※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」
「……という事があったのじゃ」
明けて天正15年(1587年)、家康は駿府城で井伊直政と本多正信に話します。
「はぁ」「左様にございましたか」
「去年のパフォーマンスは、わしが従えば四国や中国の連中も殿下に従わざるを得ないと思わせるためじゃ。次の近所へ行くにも2~3万とかいうのは、わしに対する脅しじゃろうな」
「まぁ」「そうでしょうね」
相変わらず策略に長けた猿よ……果たしてあの後、四国中国はもちろん、九州にいたるまで秀吉の武威は知れ渡ったのでした。
「しかし、あんなに虚勢を張っておった猿めが、お忍びで根回しに来たのは愉快だったな」
家康が上洛した日の夜、秀吉がその宿所を訪ねてきて三度まで拝礼したと言います。
回想秀吉「徳川殿、どうか謁見の折は本心からでなくてもいいから、わしに臣従して下され……」
回想家康「わかっております。ご安心下され、元よりそのつもりで来ておりますから……」
回想秀吉「どうか、どうか……」
そのことを知っているのは秀長と長政、そして加々爪ナニガシ(加賀爪政尚か)そして茶屋四郎次郎とのこと。
「四人とも口外せぬ旨の誓紙を書かされておったな……」
「いや、だとしたらそれを我らに洩らしちゃダメでしょう」
「ともかくあの猿めは食えぬ男よ。なかなか力押しでは行かぬから、よくよく時節を待たねばならんのぅ」
かくして秀吉に臣従した家康。その後、天下が転がり込んで来るまでには、もう少し歳月を要するのでした。
終わりに
以上、家康が秀吉に陣羽織をねだったエピソードを紹介してきました。家康自身の発案だとばかり思っていたら、実は豊臣秀長と浅野長政からのアドバイスだったのですね。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、この名場面をどのように描いてくれるのでしょうか。今から楽しみにしています!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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