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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る どうか殿下の陣羽織を!徳川家康が豊臣秀吉にねだった理由とは【どうする家康】

どうか殿下の陣羽織を!徳川家康が豊臣秀吉にねだった理由とは【どうする家康】:2ページ目

秀吉自ら、家康に陣羽織を着せてやる

……このとき諸大名皆並居て謁見す。秀吉いはく。毛利浮田をはじめ承られ候へ。われ母に早く逢度思へば。  徳川殿を明日本国に還すなりとて。又  君にむかひ。今日は殊に寒し。小袖を重ねられよ。城中にて一ぷく進らせ馬の餞せん。御肩衣を脱し給へといへば。秀長長政御側によりきて脱す。君そのとき殿下の召せられし御羽織を某にたまはらんと宣へば。秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなはじといふ。  君御陣羽織とうけたまはるからは。猶更拝受を願ふなり。  家康かくてあらんには。重ねて殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば。秀吉大によろこばれ。さらばまいらせんとてみづから脱て着せ進らせ。諸大名にむかひ。唯今  家康の秀吉に物具させじといはれし一言をおのおの聞れしや。秀吉はよき妹婿を取たる果報ものよといはる。この日諸大名の陪従多しとて秀吉奉行人を咎れば。かねて少く連候へと申付しにと申せば。秀吉うち笑ひ。  徳川殿御聞候へ。このところよりわづか清水へゆくにも。人数の三万か二万と申されしとぞ。……

※『東照宮御実紀附録』巻五「秀吉之権略」

さて、大坂城では各地から参集した諸大名が所狭しとひしめいています。秀吉は彼らに言いました。

「毛利、宇喜多はじめ皆の者、よく聞くがよい。余は徳川殿の元へ送った母上に早く会いたい。なので徳川殿を明日本国へお帰しする」

また家康に対しては

「今日は寒いから小袖を重ね着されよ。ちょっと一服したら、一緒に馬でも駆ろうではないか」

そして秀長と長政に命じて肩衣(かたぎぬ。袖のない上衣)を脱がせたときに、家康が陣羽織を所望しました。

「嫌じゃ。これはわしがお気に入りの陣羽織。今より着るのだから、進(まい)らせることかなわんぞ」

「殿下の陣羽織なればこそ、なおさら賜りとう存じます。今後、殿下が陣羽織ひいては御物具を召されるようなことのないよう、奉公いたす所存にござる」

これを聞いた秀吉は大喜び、自ら陣羽織を家康に着せてやったのでした。

「皆の者、聞いたか。徳川殿は余に陣羽織を着せぬと言うてくれた。よう出来た妹婿を持って、余はまこと果報者じゃ」

上機嫌で高笑いの秀吉。しかし何を思ったか、にわかに奉行人を呼びつけて叱りつけます。

「おい。人が多すぎじゃ。謁見の大広間に入りきっておらず、見苦しいではないか」

「申し訳ございませぬ。各家に対して最少人数で参上するよう申しつけたのですが……」

奉行人の報告を受けて秀吉はわざとらしく大笑い。本当に怒っていた訳ではなく、単なるパフォーマンスでした。

「いやぁ徳川殿。わしの下には人が集まりすぎて困る。最近なんか、ここからちょっと清水(きよみず)へ遊びに参るのでも、家来が二万とも三万ともぞろぞろついて来てしまうのじゃ」

「は。それは偏に殿下の御人徳ゆえにございましょう。それがしもまた、殿下を慕う一人にございまする」

「嬉しいことを言いおるわい……」

とまぁ、そんな具合に無事謁見は終わり、家康も無事に帰国したということです。

3ページ目 翌年、駿府城にて

 

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