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真田信幸(吉村界人)・真田信繁(日向亘)だけじゃない!真田昌幸(佐藤浩市)の子供たちを一挙紹介!【どうする家康】:3ページ目
真田昌幸の四男・真田信勝
左馬助 母は某氏。
慶長十四年九月江戸にをいて戸田半之丞勝興と争論し、つゐに刃傷にをよびて逐電す。妻は牧野讃岐守康成が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第654真田(滋野氏)
生年不詳~慶長14年(1609年)9月没(異説あり)
母親は不詳、通称は左馬助(さまのすけ)。おおむね昌親と行動を共にしたものと考えられます。
慶長10年(1605年)2月、江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ。家康嫡男)が上洛する際に大番組(おおばんぐみ。親衛隊の一組織)として供奉しました。
慶長14年(1609年)9月、江戸で同僚の戸田勝興(とだ かつおき)と口論に及び、ついカッとなって斬り殺してしまいます。
この時の返り傷で落命したとも、逐電して消息を絶ったとも言われますが、詳しいことは伝わっていません。
なお、正室には家康古参の忠臣・牧野康成(まきの やすしげ)の娘を娶っていますが、事件後(殺害?逐電?)は斉藤信秋(さいとう のぶあき。久右衛門)と再婚したそうです。
終わりに
以上、真田昌幸の子供(庶子)たちを一挙に紹介してきました。恐らくNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場することはないでしょう。
それでも「画面のどこかにいるかも知れない」「父や兄たちの側にいるあの若者がそうかも知れない」と考えながら観ることで、物語がより深く楽しめるかも知れません。
※参考文献:
- 高柳光寿ら編『新訂 寛政重修諸家譜 第11』平文社、1965年5月
- 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館、1996年7月
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