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粛清された三家老のプロフィール
天正12年(1584年)3月6日、織田信雄は秀吉と内通していた三家老を粛清。これが実質的な宣戦布告となりました。
せっかくなので、ここでは暗殺された三家老のプロフィールを振り返りましょう。
浅井長時(あざい ながとき)
永禄12年(1569年)生~天正12年(1584年)3月6日没
若くして織田信忠に仕え、天正9年(1581年)に父が亡くなると家督を継ぎ、本能寺の変後は織田信雄の家老となりました。
天正12年(1584年)1月に信雄の家老四名(浅井長時、岡田重孝、滝川雄利、津川義冬)が秀吉に内通を持ちかけられ、滝川雄利だけはこれを拒否して信雄に密告。
これによって残り三家老は粛清されたのでした。享年16歳。
岡田重孝(おかだ しげたか)
生年不詳~天正12年(1584年)3月6日没
元は信長の馬廻として仕え、天正元年(1573年)の朝倉義景(あさくら よしかげ)追討などに武功を立てました。
本能寺の変後に信雄付きの家老となり、天正11年(1583年)に家督を継ぎます。
その頃から津田宗及(つだ そうぎゅう)の茶会に同席するなど秀吉とは親しくなっていたそうです。
粛清に際して重孝を斬った太刀は岡田切(銘は吉房)として現代に伝わっています。
津川義冬(つがわ よしふゆ)
生年不詳~天正12年(1584年)3月6日没
父は尾張の守護大名・斯波義統(しば よしむね)。信長に仕える中で器量を見込まれ、信雄の家老を任じられます。
信雄の伊勢国平定に尽力し、天正4年(1576年)には伊勢の守護大名であった北畠具教(きたばたけ とものり)らの粛清に関与。本能寺の変後は松ヶ島城主として南方の奉行を務めました。
やはり茶の湯を通じて秀吉と親密になり、ついには粛清されてしまったのです。
以上の三名について、実際には内通しておらず単なる噂のみで処刑してしまい、信雄は戦う前から自ら力を削いでしまったとも言われます。
……信雄忽に秀吉の姦計に陥り。其家長ども黨與して。我をかたぶけんと計るものぞと大に怒り。たばかりて家長三人までを誅したり……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十一年-同十二年「秀吉将伐信雄」
かくしてまんまと秀吉の術中にはまった信雄たち。しかしもう後には引けなくなってしまったのでした。
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