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【築山殿事件】松平信康には男児がいた?『系図纂要』に記された松平万千代の正体は【どうする家康】:3ページ目
【仮説】松平万千代は武田信吉になった?
そこで「松平万千代」と調べてみたところ、幼名を「万千代」と称していたのは以下の二人。
- 松平信吉(のぶよし。家康の五男、武田信吉)
- 松平信吉(読み同じ。藤井松平家第3代当主)
※どっちも同姓同名で紛らわしいため、以下前者を武田信吉とします。
武田信吉は天正11年(1583年)生まれ、松平信吉は天正10年(1582年)生まれ。松平万千代と若干のズレはあるものの、武田家の滅亡に際して家康が匿っておき、信長の死後にそれとなく世に出したのかも知れません。
「ん。万千代君(ぎみ)は、ご年齢に比していささか発育がよいような……」
「左様か?気のせいじゃ気のせい!ははは……」
特に自分の子である武田信吉なら、あまり人目につかせず囲っておけましたし、大きくなってしまえば年齢の2~3歳くらい容易にごまかせたことでしょう。
信康の遺した男児であり、武田家とゆかりのある万千代。後に穴山勝千代(あなやま かつちよ。穴山梅雪の子)の養子となって武田の名跡を継いだ……のかも知れません。
ちなみに、史料から確認されている武田信吉は家康と側室・下山殿(しもやまどの。武田一門・穴山虎康の娘)の間に生まれたとされています。
一度は武田家を再興させましたが、病弱だったのか子供のないまま慶長8年(1603年)9月11日に死去。再び武田家は断絶してしまったのでした。
終わりに
信康 竹千代
永禄二年三ノ六生元亀二年八ノ廿八元服信長之一字契約源二郎三郎信康
天正七年九ノ十五自刃于二股城廿一……
【意訳】松平信康。幼名は竹千代、永禄2年(1559年)3月6日生まれ。
元亀2年(1571年)8月28日に13歳で元服、舅の信長から信の字をもらって源二郎三郎信康と名乗った。
天正7年(1579年)9月15日に二俣城で自刃した。享年21歳。
母築山殿関口刑部少輔氏廣女
天正七年八ノ廿九自刃……
【意訳】信康の母・築山殿。関口氏広(せきぐち うじひろ。刑部少輔)の娘。信康に先立ち8月29日に自刃した。
女 福子
母信長女徳子 寛永十三五ノ十卒五十八見星院香厳寿桂
小笠原兵部大輔秀政室慶長十二年十ノ十八卒……
【意訳】信康の長女・福子。母は信長の娘・徳子。小笠原秀政(おがさわら ひでまさ。兵部大輔)の妻となった。慶長12年(1607年)に亡くなった。
女 国子 母同
本多美の守忠政朝臣室寛永三年六ノ廿五卒……
【意訳】信康の次女・国子。母は姉と同じ。本多忠政(ほんだ ただまさ。本多忠勝の子・美濃守)の妻となった。寛永3年(1626年)に亡くなった。
童 万千代
母 日向大和守時昌女
【意訳】信康の長男・万千代。母は日向時昌の娘。
以上、信康が側室に産ませた男児・松平万千代について紹介してきました。信康の子供は娘だけだと思っていたので、男児がいたとは意外でしたね。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」には登場するのでしょうか(たぶん割愛でしょうけど)。瀬名と信康の最期ともども、注目しています。
※参考文献:
- 飯田忠彦『系図纂要 清和源氏 三』国立公文書館デジタルアーカイブ
- 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年10月
- 柴裕之『戦国・織豊期大名 徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年11月
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