『豊臣兄弟!』信長の勝利に見える小谷落城…実は豊臣秀吉が戦局を動かした“出世の原点”だった!
天正元年(1573年)、戦国時代に起きた小谷城攻めでは、織田信長の総攻撃によって浅井長政が滅ぼされたという説明が一般的です。大河ドラマ「豊臣兄弟!」 第17回「小谷落城」でも描かれていました。
しかし史料を丁寧に読むと、最前線で戦局を動かしていたのが豊臣秀吉だったことは明らかです。
先立つ姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を退けた信長は、浅井氏の抑えとして横山城を築き、秀吉を城番に据えます。
ここが秀吉にとって初めての城主であり、北近江での活動の起点となりました。
横山城での秀吉は、戦場だけでなく統治でも力を発揮します。荒れた寺院の復興を支援し、服属した者への融和策を進めたのです。
ちなみにこの頃、弟の豊臣秀長は兄のもとに合流し、北近江の安定化に関わっていたと考えられます。
兄が前線で戦う間、秀長は後方で人心を整えることに尽力していたのでしょう。
虎御前山の防衛線
さて、包囲が進むと、信長は小谷城の南西に虎御前山城を築き、秀吉をその城番に任じました。ここは浅井氏の補給線を断つための要衝で、包囲網の中核となる場所でした。
そこはさらに浅井軍が反撃するなら必ず通る地点であり、よってこの地点を守り切れるかどうかが戦局を左右しす。
実際、浅井長政は虎御前山城への攻撃を試みますが、秀吉はこれを撃退しました。
この時、周辺の軍道や防備の管理も全て秀吉が託されており、彼は戦場での指揮能力を磨きながら、調略の腕も発揮していきます。
坪内利定を味方に引き入れた件はその代表例で、現代に伝わる『坪内文書』に残る副状がその証拠です。
この虎御前山での防衛が、小谷城攻めの前提条件を整えたことは間違いありません。浅井の動きを封じ込め、包囲網を締め上げる役割を担ったのが秀吉だったのです。
一方、秀長は兄の動きを見ながら、旧浅井家臣の処遇や周辺村落の安定化に関わっていたと推測されます。

