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【築山殿事件】松平信康には男児がいた?『系図纂要』に記された松平万千代の正体は【どうする家康】:2ページ目
松平万千代は信康自害後も生き延びた?
童 万千代
母 日向大和守時昌女※『系図纂要 清和源氏 三』より
系図の記述はこれだけ。万千代とは幼名で、母は日向大和守時昌(ひなた やまとのかみときまさ)の娘。これ以外に情報はないようです。
日向大和守時昌は武田信玄(しんげん)・勝頼の二代に仕え、別名を日向虎忠(とらただ)・日向昌時(まさとき。誤記?)などとも言いました。
信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)を守備するも、天正10年(1582年)に織田の侵攻を受けると陥落。時昌は自ら開基した光村寺(山梨県北杜市)まで逃げて、息子の日向二郎三郎(じろうさぶろう)と共に自刃して果てたと言います。
話は戻って万千代。その生年は不詳ながら、父・信康の没年と母・五徳の訴えから概ね割り出すことが可能です。
天正5年(1577年)7月 信康次女・国子が誕生。
天正7年(1579年)9月 信康が自害
ここから築山殿が五徳をいびり、勝手に日向家の娘を連れてきたのはこの間となります。
そして彼女を側室に迎えて(時期は不明)から子供が生まれるまで約1年かかるため、万千代の生年は天正6年(1578年)~天正8年(1580年)の間と考えられるでしょう。
もし母親が信康の在世中に万千代を産んでいれば、信康の自刃に連座して殺されたと思われます。武田家にゆかりの深い男児など、生かしておいて徳川家に何の得もありませんから。
※家系図などにおける「童」という表記は、多くの場合「元服せずに亡くなった」ことを意味します。
しかし仮に母親の妊娠中(未発覚)に信康が自刃、実家へ追い返された後に彼女が万千代を産んでいたら、どうなったでしょうか。
武田家の滅亡に際して命を落としたかも知れませんし、あるいは生き延びた可能性も否定できません。
九分九厘前者(武田の滅亡時に殺された)でしょうが、実は万千代が生き延びていた可能性について、少し考えてみたいですね。
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