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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 「どうする家康」走れ阿月。家康は信長へ逆ギレ「あほたわけ」…第14回放送「金ヶ崎でどうする!」振り返り

「どうする家康」走れ阿月。家康は信長へ逆ギレ「あほたわけ」…第14回放送「金ヶ崎でどうする!」振り返り

実際はどうした金ヶ崎

……ことし弥生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ(※原文ママ。ださせられ、か)。又援兵を望まれしかば。君にも遠江三河の勢一万余騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるゝ所に。信玄(原文ママ。信長か)のいもと聟近江の浅井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろき。とるものもとりあへず。当家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ迯帰る。木下藤吉郎秀吉にわづか七百騎の勢をつけてのこされたり。秀吉は   君の御陣に来りしかゞゝのよしを申救をこひしかば。快よく請がひたまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶりうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ秀吉既に危く見えければ。㝡前(最前)秀吉が頼むといひしを捨て行むに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者どもと御下知有て。御みづから真先にすゝみ鉄砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を尽さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひ志ばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ来り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。

※『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「信長討朝倉義景」

時は元亀元年(1570年)3月に朝倉義景を討つため信長が兵を発し、家康は一万余騎を率いて援軍に出ました。

4月25日に敦賀へ到着、間もなく信長と共に手筒山城(天筒山城、敦賀城)を攻め破ります。さらに深入りして金ヶ崎城を攻めていたところへ、浅井が裏切ったとの注進が入ります。

何てこった、大変だ……信長は大慌てで尾張へと逃げ出しました。

「徳川殿へ報せは?」

「そんなの要らん!勝手にさせとけ……おい猿、兵七百やるから殿軍をせぇ!」

「へぇありがとうございます……うわ~、これ死んだ!絶対死んだ!」

一方、徳川勢の陣中では、総崩れの織田勢を見ていぶかしみます。

「殿、織田殿が逃げ出して行きますぞ!」

「何かあったのじゃろうか……朝倉勢が一気に攻めかかっておる」

「殿、木下殿から援軍要請が!」

「ここで見捨てたら織田殿へ顔向けできぬ。よし者ども、助けに参るぞ!」

という訳で家康の号令一下、迫りくる朝倉勢を蹴散らして無事に生還を果たしたのでした。

「いや~助かりました。徳川殿のお力がなければ、今ごろ死んどったわ!ギャハハ!」

なんて言ったかどうだか、これが家康の義理堅さと武勇を天下に知らしめた“金ヶ崎の退口”です。

(もちろん徳川視点の文献なので、家康ageで書かれていることは差し引かねばなりませんが)

3ページ目 袋の小豆と阿月の元ネタなど

 

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