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織田信長が「楽市令(楽市・楽座)」を出したのはなぜ?その社会的背景を探る

織田信長が「楽市令(楽市・楽座)」を出したのはなぜ?その社会的背景を探る:2ページ目

商人と寺社・貴族の関係

では、それまではどうだったのかというと、商業は「座」という商人の同業組合によって成り立っていました。彼らは寺社や貴族に金銭を支払うことで商売の独占権を得ていたのです。

寺社や貴族にお金を払うことでようやく商売が成り立つという構図は、今で言えば商売人が暴力団にみかじめ料を支払うのと同じようなものでした。特に当時の寺社は現代のような穏健な組織ではなく、本当に暴力団のような性格も持っていたのです。

こうした「座」のシステムを廃止して、誰でも簡単に商売ができることで流通を円滑にし、経済を活性化させるのが信長の目的でした。

その結果、市場は栄えましたが、商人から金銭を得ていた寺社は信長に反発し、敵視するようになります。信長が宗教団体と対立していく火種は、こうしたところに存在していました。

信長独自の政策ではなかった

ところでこの楽市令は、天才・織田信長による画期的で大胆な政策と捉えられがちですが、実際には1549年に六角定頼が、そして1566年には今川氏真が、それぞれ信長に先んじて実施しています。よってこれは信長独自のアイデアではありません。

おそらく、商人と寺社の結びつきというのはもともと社会問題として存在していたのではないでしょうか。それで、各地の大名たちは経済活性化のためにそれぞれ大鉈を振るう必要があったのでしょう。

六角・今川による政策と信長の違いは、その規模と徹底ぶりにありました。もっとも信長も何もかも自由にさせたわけではなく、地域によっては、特定の豪商に商人の統制を任せるという方策を取っています。

彼は商売の自由化を推し進めたものの、一方では、自分の息がかかった商人が市場を統制し、自分の経済方針が浸透しやすいように工夫していたのです。

楽市令とは何から何まで自由にしていいという単純なものではなく、信長によるルールの変更だったと言えるでしょう。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

 

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